『源氏物語 一 桐壺』1
『源氏物語 一』日本古典文学大系14「桐壺」
『源氏物語 一』新日本古典文学大系19「桐壺」
薮用の待つ時間を利用して、『桐壺』を読み始めた。
日本古典文学大系で読みかけたが、けっkぷややこしいので、電子辞書を引きつつ書き込みしながら読むと、鉛筆で見開きが真っ黒になった。
…舞う上がり給ふにも、あまりうち仕切る折/\は、打橋・渡殿のこゝかしこの道に、あやしき業をしつゝ、御送り迎への人の衣の裾たがう、まさなきことゞもあり。又、ある時は、えさらぬ馬道(めどう)の戸をさしこめ、こなたかなた、心をあわせて、はしたなめ、煩わせ給ふ時もおほかり。事に触れて数知らず苦しい時のみまされば、いと、いたうありたるを、「いとあはれ」と御覧じて 云々
上の部分も昔古典の講座を受けていた時に説明されていたのだが、
あやしき業をしつゝ、御送り迎への人の衣の裾たがう、まさなきことゞもあり。
の部分が、どの講座を受けても、映画を見ても、美しく生易しいいじめである。
ところが、日本古典文学大系14「桐壺」の頭注を読みと、次のように解説されていた。
あやしき業
他の女御・更衣達が不都合なことをし、糞尿の如き汚物を散らすことともいう。
ちなみに、新日本古典文学大系19では、以前の古典受講内容や映画にように、帝は女達の前を行き過ぎて、場所的に一番奥の桐壺の元へと向かう時に、妬み・嫉みを口にする光景は広がる解釈となっている。
上の解釈では、物語としてのイメージがずいぶん違うので、結局は日本古典文学大系14と新日本古典文学大系19を照らし合わせて読み進めなければならないことを痛感した。
某人に読むなら新日本古典文学大系を勧めるとお聞きしていたが、結局は日本古典文学大系14には嬉しい事に主語が書き加えられているので、混乱が少ないとも、私の場合は感じた。
そういえば、現代作家も複数名、『源氏物語』の現代語訳を書かれているが、作家によっイェ解釈や表現がずいぶん違いのだろうなと思う。
以前、円地文子さんと瀬戸内寂聴さんで一部分を読み比べて見たことがあるが、ずいぶんと違い面白かった。
現代語訳まで読む時間はないが、書き込みだらけになっても良いので、少しづつでもとりあえずは「桐壺」を読み進めたい。