乱鳥徒然。
財布がない!
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危険が多い。物理的に改善しようとしない村人、役人が怖い。
今は2019年である。だが、江戸時代の対策の素晴らしさに感心し現実の生活に心が痛む。
一 我が町の怖い図書館 (暴力さえ起こる図書館)
一 財布が無くなる騒動 (結論は勘違い)
一 我が町の怖い図書館 (暴力さえ起こる図書館)
あまり宜しからぬ話で恐縮ですが、人間、とある空間に一歩足を踏み入れると、ことごとく悪いことが起こる場合がある。
そしてこの二十年というもの、そういった事柄が起こり続ける。
人は単純にそういった身に置かれる場所を、自己流の言葉でブラックホールとか、あるいは悪書とか呼ぶ場合がある。
言葉の意味は正しくないのだが、そう思い、また思い込みによって一層悪い方向に向かう場合がある。
水が合わない、空気が合わないと片付けるのは簡単だが、当のご本人にとっては不愉快を通り越してたいそう辛いものがある。
言霊という言葉があつ。
口から発した言葉が、悪夢のように尾をひき、悪いことが現実となる。
また先日見た
映画『不能犯』のように思い込みや暗示が現実かされる場合がある。
今日もそうだった。
近隣の図書館に行くと、複数回そこの図書館や県立の図書館のカードが紛失する。
真面目に読書すると、うるさいご老人が、暴力を振るう。
さらにまた違う輩が、
「赤信号で渡った。」
といちゃもんをつけ、表で待っているからと怖い表情でのたまう。
恐ろしいので図書館員に助けを乞うと、互いに顔を見合わせ、無言である。
図書館の係員は、始終おしゃべりに夢中で、男性との会話を楽しまれている。
そんなことをしているから、その図書館員に注意すれば、その男性に、
「表で待っているから」
と、怖い言葉を投げかけられる。
その図書館員は守秘義務という言葉を理解しておらず、やれ
「あの本は障害者の云々」
「その本は素敵な男性が読んでた。」「私たちにちょうど合うくらいの年齢の人です。」
と色気付き、図書館員らしからぬ服と化粧。おまけに館内がカンカンと鳴り響く細いピンヒールで男と戯れる。
その人は歌手の沢田研二さんが好きらしく大声で、
「今日、ジュリーのコンサートに行きますねん。」
とノーテンキなことを大声で、しかも館内のカウンター近くで話してくてる。
スーパーでたまたま出会い話したのではない。
図書館の中で嬉々とした大声を鳴り響かせるのである。
どこぞのおじいさんが私のことその職員に
「難しいの読んだはるわ。」
と、指を指し大声でのたまう。
すると例の図書館員が、
「あの人は、いつも難しいのを読んではります。」
とまだまだ話を続ける。
こう云った会話は公務員にはふさわしくないということすらわからない職員。
町長の代理の部下は、こう云ったことは守秘義務には当たらないと 酢ボケたことを言い逃れる。あるいは、力のある超関係者に近しい女職員の傷を舐め、かばう。
身内の天下であると、古くからの町民は口々におっしゃる。
結果、図書館員は、図書館に来る人の個人情報を広げ、障害者の男性のことまで言いのける。差別用語もあれこれ出てくるわ出てくるわ!が現実である。
他所者は差別しよう。
自分たちと違いを持つ人々は差別して当然と行った始末。
私のように個性的な趣味を持つものは異端者である。
夫が働いていた頃に、人並みには税金は支払ってきたのだが、口は出すなの一点張りである。
近隣の災いが起こる図書館に務める他の図書館員曰く
「同じ職場で、しがらみがあるので、私たちからは言えないんです。」
と。
さらに町の関係者でなを馳せている関係者が多いため、町職員は言えないともいう。
町住民の方々がおっしゃるとおりである。
町民だよりを見れば阿呆な図書館員の関係者がご大層な職場に身を馳せられている。
図書館は引っ越し当初は静かであった。
それがどうして、あの愚かなる図書館員が配属され、図書館を憩いの場として無駄口を話し始めたことから、近隣図書館の雰囲気はいっっぺんし、うるさいのが当たり前となる。
昼に紺のスーツ姿で寝に来る関係者は、大いびきをかき眠るが注意はしない。
大声で長い携帯電話、子供は館内を走り回り大声で話規制をははっするが、職員はお構いない。
図書館内でペットボトルを飲み、大声で話、新聞はカチャカチャと鳴らす。
それを推奨するかのような阿呆の図書館員と、その輩に注意もできない町の体質、および責任者。
今はその図書館員はふれあいの場に転属されたので、ご年配の方々とお戯れになればちょうどその方にあっていて酔うと胸をなでおろす。
ただし、その女性が言っていたような背丈の高い男前でかっこいいちょうど私たちに合う年齢の、そう云った条件が揃う男性とはお話しできないであろうが。
無駄話は得意な方だったので、お寂しい方々にお優しく接することを願うのみである。
しかし、恐ろしい。誠怖い図書館である。
図書館カードは二枚もなくなる。
うるさいおじいさんに言いがかりをつけられて、あるいは後ろから押され、ある日は暴力を振るわれ警察沙汰となる。
また、女職員と話していた女性職員のいう男前らしい(?)男性は、女職員が配置換えになっていこう、いちゃもんをつけ、表で待っているとステゼルフ。
そんな図書館でも毎日来られていらっしゃる常連男性が、二度とも助け舟を出してくださった。世の中悪い人ばかりではない。
出来る限りその図書館には行かずにいたいが、他の図書館の本を借りたい時と返したい時には近隣の図書館に行かざるを得ない。
他の図書館ではことを得ないのである。
そしてたまたま用があり不吉な行くと、何かしらの問題が起こる。必ずと言って良いほど起こる。
スムーズに帰れたことが少ないと思えるほどに、悪いことがこの身にのしかかる。
一 財布が無くなる騒動 (結論は勘違い)
私の方も近隣の図書館に行くと何かしら起こるので、身構える。
悪い予想は渦をなして私に災いをもたらし、実際に悪い方向に向かう。
上にも書いたように言霊、あるいは映画『不能犯』のように私の不吉な予感は実現化する。
今日も今日とで、色々なことの終いには財布がなくなる。
カバンの中をセベ手を取り出して十度以上も確かめたが、無い。
カバンの中になければここしかないと目ぼしい室にあるはずの財布は姿を消している。何度その部屋を見てもない。
私は、職員に様子を聞き、職員お二人の前でカバンの中の全てを取り出し中を見てもらったが、やはりない。
帰宅後、免許証やカードやチケットやそこそこの現金の入った、お気に入りの財布をなくしたと夫に伝える。
夫も何度もカバンの中を見て確かめてくれる。
私も何度も確かめたがなかった。
気が動転していた私を夫は助けてくれた。
カード会社の電話番号福祉いを調べてくれたり警察署の電話番号を検索してくれ私に手渡してくれた。
そのうち、財布をなくした時の最後の私がとった行動の様子を明確に思い出した。
カバンの中にないのであれば、あの時の2,3分の間に盗まれたのかもしれないと。
私は夫の目も借りて、さらにカバンを探す。
そして財布に入れていたカードやピタパやスマートイコカなどの停止、再発行、また解約の電話をし続けた。
そのあと念のためもう一度カバンの中にないかを確かめ、警察署に電話をした。
「落としたのですか?取られたのですか?」
「その状態なら、置き引きですね。」
と言って、図書館に向かうように促してくださった。
警察の方が一通りの事情を聞き、カバンを探してくださると、
「ここに硬いものがありますよ。」
とおっしゃり、財布はもののみごとにカバンの中に在った。
「警察案は、在ってよかったですね。」
と笑みを浮かべてくださった。
私のとった行動は、警察官の方や図書館の方やカード会社の方に多大な迷惑をかけた喜ばしからぬ行動であった。
しかしながら、心理学者の友人や多くの友人知人、夫はいう。
「おそらく、その財布には手で触れていたであろう。」と。
ただ、思い込みや不吉な予感が私を盲目にし、映画『不能犯』の置き換えのような現実をもたらしたのであろうと。
痴呆症になった場合に、盗られた盗まれたと言い張るご老人がいらっしゃるという。
今回の行動は、カバンの中にないというのが、一つのキーポイントではあったが、実際には何度丹念に探しても探し出せなかった。
これを痴呆症で済ませるのは簡単ではあるが、もう一つの大きな要素としては、「近隣の図書館に行くたびに災いが起こる。」ということである。
しかしながら、こう言った実態が起こったのも事実。
できるだけ漫然の注意をきし、近隣の図書館には近づかないかあるいは自体を克服すべく入り浸るか、そのようなことを漠然と考えている。
最近では、県の図書館以外では隣町の図書館に出向くかあるいは自分の家で読書や調べ物をしている。
だが、自分の町の図書館でしかできないことがあるのも事実である。
困ったものだ!!!
近隣の図書館に行けな災いが起こるというジンクスを克服すべく、私は不吉な図書館を利用しようと心に誓った。
秋には文化的な町に行くことができるも。
また冬にはこことは違う場に身を置ける時間が保たれる。
気を取り直し、今の不幸から打破し、自分の身を良い場に起きたい。
そのためにも、この町、そしてここの図書館には毅然と態度でのぞみ生きていこうと強く感じた。
悲しきかなこの町を歩くと、雑草は生え、歩道は街路樹や私物や駐車やゴミで占拠され、車椅子は通るどころではない。
昨今免許書を返上するお年寄りが増え、スズキなどの電動車椅子風の乗り物を利用する方が多いとニュースで放映されていた。
そういった電動車椅子風の乗り物は歩行者扱いで、歩道の走行となるらしい。
だが現実には障害物が多く、ひどいところでは乗り上げた車がある場合、その外側、つまり車道のど真ん中を走らせねばならない。
図書館だけではなく、これだけ空き地が多いのに危険な町なのである。
しかし、誰も中を促さない。
某市内の真ん中に住んでいた頃は、粗油行ったことは考えられないことであったのが事実である。
危険が多い。物理的に改善しようとしない村人(役人が自分たちのことを村人といい、自分たちの街を田舎と呼んでいる)、役人が怖い。
そんな所に住んでいる。
今は2019年である。だが、江戸時代の対策の素晴らしさに感心し現実の生活に心が痛む。