『ソクラテスの弁明 クリトン』12 エピクロス(死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張)
ギリシア哲学の起源
アナクシマンドロスから始まるイオニア学派(厳密にはミレトス学派)
ソクラテス(ソクラテス学派)
プラトン(古アカデメイア学派)
ピタゴラスから始まるイタリア学派(ピタゴラス教団のこと)
パルメニデス(エレア派)
ゼノン(エレア派)
エピクロス(エピクロス学派)
エピクロス
エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)
快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。
エピクロス派の始祖である。
現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。
後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまう。
エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
自然思想と認識論 エピクロス
エピクロスの自然思想は、原子論者であったデモクリトスに負っている。
つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。
そうした存在を把握する際に用いられるのが感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。
こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。
たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べている。
その理由として、死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。
このように「平静な心(ataraxiaアタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。
エピクロスの倫理学
エピクロスは、幸福を人生の目的とした。
これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。
倫理に関してエピクロスは
「快楽こそが善であり人生の目的だ」
という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。
ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。
すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。
より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。
こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。
このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。
しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。
エピクロスの語録
*「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」
*「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」
*「われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には、我々はもう快楽を必要としない」
参考
『ソクラテスの弁明 クリトン』
プラトン 著
久保 勉 翻訳
岩波文庫 青601-1
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