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『ソクラテスの弁明 クリトン』5 (クセノポンについて/ クセノポン、ペルシアへ / クセノポン、ペルシアからの帰還とその後)

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写真はイラン

 

 

 『ソクラテスの弁明 クリトン』5 (クセノポンについて/ クセノポン、ペルシアへ / クセノポン、ペルシアからの帰還とその後)

 

 

 クセノポンとは

 クセノポン(クセノポーン、希: Ξενοφών、英: Xenophon、紀元前427年?-紀元前355年?)

 古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身。

 ソクラテスの弟子(友人)の1人。

 クセノフォンとも。

 息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテーバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス)。

 

 

 クセノポン、ペルシアへ

「アナバシス」

 セノポンは若いころ、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した(紀元前401年~紀元前399年)。

 クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。

 しかしクセノポンは

「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」

とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。

 クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。

 ソクラテスはしかたなく

「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」

として、参加を許したという。

 しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。

 傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。

 しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。

 

 

 クセノポン、ペルシアからの帰還とその後

『アナバシス』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻したスパルタに雇われることで終わる。

 クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。

 彼の著作『アゲシラオス』を見ると、スパルタ王アゲシラオス2世に心酔していたことが分かる。

 始めは、スパルタ軍と小アジアを支配するペルシア帝国との戦いであったが、ギリシア本土で反スパルタ陣営の反乱が生じ、コリントス戦争が勃発するにあたり、スパルタ軍の一員であるクセノポンも反スパルタ陣営との戦いに突入することになる。

 アテナイも反スパルタ陣営に在ったので、コロネイアの戦いにて、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。

 このため、クセノポンは当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。

 それでも、クセノポンはコリントス戦争をスパルタ側として戦い続けた。

 その功績を讃えられ、アンタルキダスの和約によってコリントス戦争が終結した後に、クセノポンはスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーバイがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。

 だが、皮肉にも今度はテーバイの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。

 しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次はコリントスに移住し、そこでその生涯を閉じた。

 没年は定かではない。

 

 

ソクラテスの弁明   クセノポン

ソクラテスの弁明   ソクラテス

 

 

参考

『ソクラテスの弁明 クリトン』

  プラトン  著

  久保 勉  翻訳

  岩波文庫 青601-1

 ウィキペディア

 

 

 


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