一汁一菜 3
元々は鎌倉時代に禅寺で採られていた、質素倹約を重視した食事の形式を指す言葉であった。
よっておかずも野菜を用いた極めて質素なものであった(ただし、特別な日や来客時には「一汁三菜」となった)。
この食事形式が一般の人々にも広まり、やがて一汁一菜・一汁三菜が日本の伝統的な日常の食事形態として定着するに至った。
ただし、鎌倉期以前の律令時代の下級官人と庶民の食事形態も実質的には一汁一菜である。
江戸の長屋で暮らしている人々の場合、暮れ六つ(日没=午後6時ごろ)に男性が帰って、湯屋に行って湯を浴び、それから食事となり、一汁一菜、ないしは一汁二菜と香の物程度を食べたといい、おかずとしては夕鯵(ゆうあじ)と言うように、夕方に魚河岸にならんだ新鮮な鯵やこはだが喜ばれたという 。
ただし庶民にとっては一汁一菜も日常の食事としては贅沢なもの。
通常は「おかず無し」、つまり、ご飯・汁・漬け物のみというのが日常の食事スタイルであった人も多いともいう。
玄米(あるいは半搗き米など精白度合いが低い米)で食べれば米は完全食であり、味噌汁で大豆蛋白を補えば栄養学的にはそれで充分なのである。
「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ…… ほめられもせず 苦にもされず そういうものに私はなりたい」と宮沢賢治は詩の中でうたっている 。
重労働をこなしていた時代には米を大量に食べてカロリー源とするのみならず、タンパク質も米から摂取していた。
比率は多くはないものの人間にとっての必須アミノ酸がバランス良く含まれ、米はタンパク質の補給源としても秀れた食品であり、米のみで人体を維持するに十分なカロリーとタンパク質は得られるのである。
一方で白米のご飯で同様の食事スタイルをとると栄養不足に陥ることとなり、江戸時代には俗に「江戸わずらい」と呼ばれた。
江戸時代には上杉鷹山や池田光政が人々に倹約のために食事を一汁一菜にするよう命じたことが知られている。
松代藩のように「おかず禁止令」を出して徹底した倹約を図った藩も存在する。
二宮尊徳も奉公先の小田原藩家老服部家を立て直すにあたって、おかずを禁止している。
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