東海道中膝栗毛 三巻 5 八丁裏 九丁表 十返舎一九 通油町(東都) : 栄邑堂, 享和2-文化11
東海道中膝栗毛 三巻
発端,初,後,3-8編 / 十返舎一九 著
十返舎一九 1765-1831
通油町(東都) : 栄邑堂, 享和2-文化11[1802-1814]序
18冊 ; 19cm
滑稽本
書名は発端の巻頭による その他の巻頭書名:浮世道中膝栗毛,東海道中膝栗毛 序題:膝栗毛 題簽書名:浪華見物滑稽膝栗毛 見返し題:東海道中滑稽記膝栗毛,洛中滑稽之記膝栗毛 扉題:中ッ腹五十三次売ッ尻道中之記
序:芍薬亭主人ほか
共同刊行:河内屋太助(大阪心斎橋唐物町)ほか
和装
印記:拾翠艸堂児戯之記
読んでいるのは、早稲田大学 ヘ13 03123 3巻目
八丁裏
(「ふじのあたまが、つん)もへる、なじよにけふりがつんもへる、三嶋女郎衆(ぢょろしゆ)
に、がらゝ打こみ、こがれおじゆつたらつんもへたぁ、
しよんがへドゥ/″\ こちらからゆく馬かた たがいに行ちがひて 「ヒヤア 出羽宿の
先生どふだ、向ふよりくる馬かた 「べらぼうめ、おれが先生
なりやァ、うぬハはつつけだァ 「ヒイン/\ 又むかうより来るハお大名
のお国からおゑと入の女中たち、かごをつらせて、四、五人づれ、さいぎつれてくるを見て弥次郎 「ヲヤ/\、ゑらい/\
きた八 「ほんに是ハみな生た女だ、きめう/\、ナント弥次さん、つかねへこつたが、白い手拭をかぶると、顔の色
九丁表
がしろくなつて、とんだいきな男にみへるといふ
ことだが、ほんとうの 弥次「ソリヤァ ちげ(違)へなしさ、北八「よし/\
トたもとから、さらしのてぬぐいを出して、ぐつとほうかふりにすると、
とふりすがひに女中たち、きた八がかほをのぞいて見て、みな/\わらひ、
とふりすぎる、 「ナント、どうだ、今の女どもが、おいらが顔を見
て、うれしそうに笑いていつたハ、どふでも色男ハ
ちがつたもんだ、弥二「わらつたはづだ、てめへの手拭
を見や、木綿さなだの紐が、さがつていらァ、
北八「ヤァ/\、こりやぁ、手じやね、ゑつちうふん
出羽宿
江戸時代に入ると村上藩(新潟県村上市)の本城である村上城の城下と、庄内藩(山形県鶴岡市)の本城である鶴ヶ岡城を結ぶ街道として改めて整備され、村上藩主は海、岩石、小俣宿、雷に番所が設置されています。
庄内藩初代藩主酒井忠勝が初めて御国入りした際にも出羽街道が利用されています。特に参勤交代では利用されず、日本海の沿岸部はが整備されていましたが、羽州浜街道に比べると難所が少なく、季節によっても影響が受けにくかった事から引き続き多くの人々が利用したようです。
元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥之細道で当地を訪れた際には酒田から鼠ヶ関宿(山形県鶴岡市)までは羽州浜街道を利用し、鼠ヶ関宿からは出羽街道に入り、村上城の城下町に至っています。
江戸時代後期になると、出羽三山(山形県鶴岡市)の信仰が全国にも広がり、日本海側の参拝者は出羽街道を利用したとされ、村上城の城下の鎮守である神社は戦国時代に本庄氏によって出羽三山の一翼を成す羽黒神社の祭神である羽黒大権現に分霊を勧請したもの。
藩主の祈願所の観音寺は、同じく出羽三山の一翼を成す湯殿山神社と関係が深かった事から城下の住民も出羽三山を詣でたと思われます。
又、街道沿いの湯田川温泉(山形県鶴岡市)は鶴ヶ岡城の奥座敷とも云われ庄内藩の温泉場が設けられ、出羽街道を通過する旅人や商人、出羽三山の参詣者などから利用され大変栄え、湯野浜温泉(山形県鶴岡市)、温海(あつみ)温泉(山形県鶴岡市)と共に庄内三名湯に数えられました。 (https://www.niitabi.com/kaidou/dewa.html)
木綿さなだの紐
木綿の平打ちの紐