『疱瘡心得草』4 03裏:挿絵 04表:本文 志水軒朱蘭 述
『疱瘡心得草』 志水軒朱蘭 述
一冊
出版 蓍屋善助
寛政10 [1798]
国立国会図書館デジタルコレクション
請求番号 852-26
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『疱瘡心得草』
国立国会図書館所蔵
03裏:挿絵
屋 嶋 高
京祇園町
小町紅
高嶋屋
小町紅 (ウィキペディア)
小町紅とは、江戸時代の口紅の商標である。
絶世の美女・小野小町にあやかった商品名で、当初は、京都で作られた特に良質な口紅のことを指して小町紅と称した。
ただし、当時の商標は現在の商標登録とは扱いが異なり、どちらかといえば商品のカテゴリーを表す意味合いを持った名称である。
現在では、伊勢半本店が江戸時代から続く伝統製法で製造販売している。
江戸時代の口紅は、紅花の花弁に含まれるわずかな赤色色素を抽出し精製したもので、現在の油性基材の口紅とは異なる。
口紅の製造は、紅屋または紅染屋が紅染めの兼業として行う形態が主であり、小間物屋や薬種問屋といった化粧品を扱う店では、紅屋から仕入れた口紅の卸売りを行うことが多かった。
抽出・精製した口紅は、陶磁製の猪口や皿、あるいは貝殻などの内側に塗った状態で販売された。
先般、新宿区の内藤町遺跡から「小町紅」と書かれた肥前系磁器の紅猪口(推定年代1780~江戸時代)が発掘されている。
なお、紅の容器と思しきものが文献上に確認できるのは平安時代からで、『江家次第』に「口脂筥」、『香取宮遷宮用途記』には「紅粉佐良」、『類聚雑要抄』には「紅粉盤」とある。
天保2年(1832年)に出版された、当時のショッピングガイド誌『商人買物独案内』(京都編)には、「御用小町紅」として京都四条通麩屋町東の「紅平」(紅屋平右衛門)の名が収載されている。
同書には、紅平以外にも「小町紅」を取り扱う店として、祇園町の高島屋喜兵衛、伊勢屋五三郎、美濃屋吉郎兵衛の店などを載せている。
前掲書に先立ち、江戸で出版された『江戸買物独案内』(文政7年・1824年刊行)によれば、江戸でも近江・伊勢系商人の店で「小町紅粉」を扱っていたことが確認できる。
口紅の製造の主体は長く京都にあり、江戸ではもっぱら下り物を扱っていた。江戸で口紅の製造・販売が行われるようになるのは、江戸時代後期以降と考えられている。
小町紅は、当時の口紅のいわばトップブランドで、良質ゆえに非常に高価であった。
一般庶民が容易く購入できる口紅ではなく、主な購入者は御殿女中や豪商の婦女子、花柳界の遊女といった粋筋の人々だった。
良質な紅は、容器の内側に塗り自然乾燥させると、赤色ではなく笹色(玉虫色)の輝きを放った。『江戸買物独案内』の中に「笹色飛光紅」を扱う「玉屋」(玉屋善太郎の店)という紅問屋の広告が収められている。
玉屋はもともと京都の紅問屋で、小町紅の販売を行っており、江戸の日本橋本町二丁目に出店していた。『熈代勝覧』本町二丁目の風景の中に玉屋が描かれており、同資料には当時の紅屋の看板であった赤い幟が、玉屋の脇に確認できる。
国立国会図書館所蔵
04表 左
かせになりてくひものに気(き)を付くべし
紙燭(しそく)照(てら)し様(やう)の心得の事
序病(じよやみ)の時(とき)余病(よびやう)にてもあるか、又は疱瘡(ほうさう)ならんかと心得(こゝろへ)るに
紙そくを捻(ひね)りて軽重(かろきおもき)多少(たしよう)をうかゞひ見るなり、昼なれ
ば屏風にてかこひ、闇(くら)くして病むものゝ左の頬(ほう)より見始(みはじめ)
額(ひたひ)の真ん中をよくみるべし、兎角(とかく)に日(ひ)の光りにては
見へかぬる物(ものなり)、すでに肌表(はだひやう)にあらわれて、後ハともし火(び)ハ
悪(あし)く 、其時(そのとき)ハ日ならでは血色(ちのいろ)の紅白(こうはく)虚実(きよじつ)、わかちがたし
たゞ発熱うたがわしき時のみなり、紅紙(べにがみ)を用(もち)ゆべし
もし紅紙(あかがみ)なき時(とき)は、紅(べに)を白紙(しらかみ)にぬりて用ゆ、右の
くひもの
食い物
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『疱瘡心得草』4 03裏:挿絵 04表:本文 志水軒朱蘭 述
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