『風流 妖化役者附』上 四ウ 五オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 5
『風流 妖化役者附』上 四ウ
実事のしうさん坂田椀(わん)五郎鬼王(おにおう)新左衛門の役をつとめて
はね をとる竜王の女房に 芳沢綾(あや)の介両人
両人 そがの身
ひんなる
子を かこち
て
うれい のだん
もて ます/\
「女房ども
いかなれハ
此ように
曽我ハってひんしやぞ
やいゑゝ、くちおしや
なあと正月(むつき)やの(さん)枚 暁(きやう)をこじつけて はねる
「せまじきも のハうやづかへでござんす、こちの
人と橘屋春水(たちばなやしゅんすい) をそのままに
うつす
大でけ/\
『風流 妖化役者附』上 五オ
あずま洞藤(どうとう) 小佐川 舟(ふね)に今此しばい
口上のぶ つとりもの
わん
き
事
よし
成屋の
仕内いつれも
互角(ごかく)の女方ばけもの
なり田にて外二るいなし
●表具(ひやうぐ)やの藁枝(はんし)
●米屋の巨舟(こせん)
とて、こなさんも
わしも、ミんな御 そんじのわけで
こざんす、女まからも手うちにせん
おこされてハ、あいならぬわいな
「いや、手がら
ハ
しがちそこ
のいくとほしや
ために
なる
まい
ぞ
『風流 妖化役者附』上 四ウ
実事 =じつごと (三省堂 大辞林 第三版)
① 歌舞伎の演技・演出の一。判断力のある常識人を主役とした誠実さを性根とする演技。また、その役柄。 → 和事 ・荒事
② 本当のこと。まじめなこと。 「そなたとわが身は-にて、口舌などする挨拶か/浄瑠璃・五十年忌 中」
しうさん =集散か (三省堂 大辞林 第三版)
集散 =集まることと散ること。また、集めることと散らすこと。聚散。
坂田椀五郎 = 和事の坂田藤十郎に対しての、実事の坂田椀五郎として表現されているのか。
或いは、 『二人椀久』のもじりか。
初代坂田藤十郎 =正保4年(1647年) - 宝永6年11月1日(1709年12月1日))
江戸時代の歌舞伎役者。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。
元禄の時代を代表する名優で、上方歌舞伎の始祖の一人にかぞえられる。
「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。
京、大阪で活躍近松門左衛門と提携
『傾城仏の原』『けいせい壬生大念仏』『仏母摩耶山開帳』などの近松の作品を多く上演
遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。
やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固める
『二人椀久』…この期の唄方には初世富士田吉次のほか,のちに遊里に進出して荻江風(おぎえふう)長唄(のちの荻江節)を創始した初世荻江露友,そのほか初世坂田仙四郎,初世湖出市十郎,三味線方に錦屋総治,西川億蔵,初世杵屋作十郎,2世杵屋六三郎,囃子方に宇野長七,3世田中伝左衛門などがいる。 安永・寛政期(1772‐1801)は長唄が上方依存から江戸趣味へと転向し,内容本位の唄浄瑠璃風の長唄から拍子本位の舞踊曲へと移行する,いわば過渡期であり,《二人椀久(ににんわんきゆう)》《蜘蛛拍子舞(くものひようしまい)》がその代表曲であった。また,1792年(寛政4)には舞台に演奏者が並ぶための雛壇が採用されて,歌舞伎舞踊の舞台をより豪華なものとした。…
芳沢□の介の文字が付く江戸時代の歌舞伎役者 = 芳沢綾(あや)の介
芳沢綾(あや)の介 (おんな型)(当時、初代藤十郎と組む)
芳沢あやめ関連
紀伊国の中津村(和歌山県日高川町)の生まれ。5歳の時に父を亡くし、その後道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。
はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると。
その強い勧めで女形としての修行を重ねた。
後年女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。
のち口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏む。
元禄5年(1692年)に京に上り、元禄8年(1695年)に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。
元禄11年(1698年)には『傾城浅間嶽』での傾城三浦役が演じ人気を博す。
正徳 3年(1713年)11月江戸に下り、翌年11月に帰京。その2年後には役者評判記『三ヶ津惣芸頭』で高い評価を受ける。
享保6年(1721年)には立役に転じて芳澤權七を名乗るが不評で女形に戻る。
この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明。
享保13年(1728年)隠居、翌年死去した。
初代あやめは、舞台だけでなく日常生活でも常に「女性」を意識していなければならないと門人に教えていた。
たとえば、食事をするときはみなから離れて一人で食べなくてはいけない。
食べている時に男になってしまったら相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。
初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加て『役者論語』という一冊の本にまとめられた。
同書の「あやめ草」の章を参照されたい。
両人 そがの身
ひんなる
子を かこち
て
うれい のだん
もて ます/\
=両人 蘇我の身(蘇我十郎、曽我の五郎)
貧なる子を囲いて
憂の段を以って益々
暁 =きやう(ギョウ)(角川新字源)
意味①あかつき。よあけ。あけがた。「暁鐘」「暁天」「早暁」
②さとる。よく知っている。さとい。「暁習」「通暁」
春暁(シュンギョウ)・早暁(ソウギョウ)・通暁(ツウギョウ)・払暁(フツギョウ) →ギョウ
旧字は、形声。日と、音符堯(ゲウ)→(ケウ)とから成る。空が明るくなる、「あかつき」、あきらか、転じて、「さとる」意を表す。
橘屋春水 = たちばなやしゅんすい
芳澤あやめ (初代)
上にも書いたが、
初代 芳澤あやめ(しょだい よしざわ あやめ、1673年(延宝元年) - 1729年8月9日(享保14年7月15日))は元禄から享保にかけて大坂で活躍した女形の歌舞伎役者。
屋号は橘屋。俳名に春水。
本姓は斎藤。通名を橘屋 權七(たちばなや ごんしち)といった。
『風流 妖化役者附』上 五オ
藁枝(はんし) = 半紙
藁紙(わら紙)
こな(さん) = こ-な 【子な】
名詞
子供たち。
恋人などを親しんでも呼ぶ。
「こら」の上代の東国方言。「な」は接尾語。
ミんな御 そんじ = 皆んなご存知
女まからも手うちにせん
おこされてハ、あいならぬわいな
= 女ながらも手打ちにせん(と)
起こされては、相ならぬわいな
(読み間違いはお許しください。)
話の続き方
1
『風流 妖化役者附』上 一オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 1
↓
2
『風流 妖化役者附』上 一ウ 二オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 2
↓
3
((今回の記録))
『風流 妖化役者附』上 二ウ 三オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 3
↓
4
『風流 妖化役者附』上 三ウ 四オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 4
↓
5
『風流 妖化役者附』上 四ウ 五オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 5
↓
6
『風流 妖化役者附』上 一オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 1
『風流 妖化役者附』上 一ウ 二オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 2
『風流 妖化役者附』上 二ウ 三オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 3
『風流 妖化役者附』上 三ウ 四オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 4
『風流 妖化役者附』上 四ウ 五オ(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ) 鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)] 5
『風流 妖化役者附. 上』(ふうりゅう ばけものやくしゃづけ)
鱗形屋孫兵衛, [江戸 明和6(1769)]
19cm
黒本
書名は題簽による 版心書名:役しや 角書付書名:風流妖化役者附
墨書入あり
和装
黒本(くろほん、くろぼん)とは
江戸時代に書かれた挿絵が描かれた本、草双紙の一種。
子供向けの赤い表紙の赤本が発展して、青少年向きの黒い表紙の黒本になった。
題材は、浄瑠璃、歌舞伎、英雄伝、戦記が多い。草双紙 黒本
上
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