だ〜るまさんがこ〜ろんだ
又もや乱鳥はんがころんだ
写真は京都の壬生寺
今朝、友人から電話が鳴る。
何事かと思いきや 『白居易』より「不眠」(眠らず) 新修中国詩人選集4をみた彼女
「狂歌は江戸時代に流行ったのではないのかしらん。」
加えて
「白居易はもっと昔の人ではないかしらん。」
とのこと。
そういえば狂歌においては、そのように何かしらんで読んだように記憶している。
私の記憶では曖昧さが回避できず、狂歌が気になって、調べてみた。
ウィキペディアによれば、狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)、とある。
狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。
落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。
独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。
特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、そこには平賀源内が序文を寄せている。
明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されている。
これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、石川雅望)らの名もよく知られている。
狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。
現在でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。
加えて白居易(はく きょい、772年2月28日(大暦7年1月20日) - 846年9月8日(会昌6年8月14日))はも調べてみた。
ウィキペディアによれば白居易は中唐の詩人。
字は楽天。
号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。
772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。
子どもの頃から頭脳明晰で、5〜6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。
35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省周至県)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐる越権行為により左遷され、江州(現江西省九江市)の地方官、司馬となる。その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。
838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。
74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。
ウィキペディアで安直に調べただけの私。
ますますわからなくなってきた。
上出以外の 知人曰く、江戸時代もそういった引用の仕方は多くみられる、と。
当たり前のことだが、フィクションの場合はなおさらで、多用されていると言う。
少しずれるが、『竹取物語』の講義のこと。
万葉集の大先生に習われた万葉集研究家のK先生曰く、時代はバラバラで固有名詞を具体化される例は『竹取物語』にもみられる。と。
乱鳥阿呆の上に混乱をきたし、歴史的に考えると、ますますわからなくなってきた…
とりとめもない拙ブログにお付き合いくださいましてありがとうございます。
又もや乱鳥はんがころんだ
写真は京都の壬生寺
今朝、友人から電話が鳴る。
何事かと思いきや 『白居易』より「不眠」(眠らず) 新修中国詩人選集4をみた彼女
「狂歌は江戸時代に流行ったのではないのかしらん。」
加えて
「白居易はもっと昔の人ではないかしらん。」
とのこと。
そういえば狂歌においては、そのように何かしらんで読んだように記憶している。
私の記憶では曖昧さが回避できず、狂歌が気になって、調べてみた。
ウィキペディアによれば、狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)、とある。
狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。
落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。
独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。
特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、そこには平賀源内が序文を寄せている。
明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されている。
これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、石川雅望)らの名もよく知られている。
狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。
現在でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。
加えて白居易(はく きょい、772年2月28日(大暦7年1月20日) - 846年9月8日(会昌6年8月14日))はも調べてみた。
ウィキペディアによれば白居易は中唐の詩人。
字は楽天。
号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。
772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。
子どもの頃から頭脳明晰で、5〜6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。
35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省周至県)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐる越権行為により左遷され、江州(現江西省九江市)の地方官、司馬となる。その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。
838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。
74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。
ウィキペディアで安直に調べただけの私。
ますますわからなくなってきた。
上出以外の 知人曰く、江戸時代もそういった引用の仕方は多くみられる、と。
当たり前のことだが、フィクションの場合はなおさらで、多用されていると言う。
少しずれるが、『竹取物語』の講義のこと。
万葉集の大先生に習われた万葉集研究家のK先生曰く、時代はバラバラで固有名詞を具体化される例は『竹取物語』にもみられる。と。
乱鳥阿呆の上に混乱をきたし、歴史的に考えると、ますますわからなくなってきた…
とりとめもない拙ブログにお付き合いくださいましてありがとうございます。