1678年(延宝6年1月6日) -
夕霧太夫(初代)の亡くなった日
1678年といえば 延宝
延宝(えんぽう、正字体:延寳)は、日本の元号の一つ。
寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。
この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。
夕霧太夫
夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)は京都・嶋原、大坂・新町廓にいた太夫で後述する2名が知られている。
嶋原は京都にあるので訪れたことがある。
新町遊廓(しんまちゆうかく)とは
大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓(花街)。
現在の大阪府大阪市大阪市西区新町1 - 2丁目に存在した。
豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。
新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。
その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。
廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されている。
夕霧太夫とは
芝居では
近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』
浄瑠璃の『廓文章』
歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』 など
上四演目の中で『夕霧七年忌』は見たことがない…(涙)
生年不詳 - 延宝6年1月7日(1678年2月27日)。
本名は照。
出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。
いつ、どういう風に嶋原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。
ここから大坂の太夫は生まれるのである。
姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。
若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。
享年は22とも27とも伝えられる。
亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが他に徳島や和歌山にもある。
死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。がある。
毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、嶋原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。
夕霧太夫(現代の嶋原太夫)
データーはWikipediaを参考にさせて頂きました