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Channel: 乱鳥の書きなぐり
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「 嘘の三八 」    (ふと、落書き)

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【嘘】と【八】がセットになっている事も多いですね。
「嘘のサンパチ」「嘘八百」「嘘っぱち」…「手八丁口八丁」って言うのも入れちゃっていいですか?
【八】って数で多いって意味もあるらしいので、嘘だらけなんでしょうかね。

 その中で皆さんは「嘘のサンパチ」 って実際に聞いた事がありますか?
「嘘のサンパチ」「嘘の三八」
 映画『ミナミの帝王』や漫才などで「嘘のサンパチ」って聞いた事があります。

「嘘の三八」のが3(三)と8(八)って何なのでしょう?
 わたくしは「嘘のサンパチ」って漠然と嘘をつくときに使うことが多い数字が3(三)と8(八)だと思ってたんですけど…。
 調べてみると、【嘘をつくときに使うことが多い数字が3と8】という意外にも説があるらしいんです。

「嘘のサンパチ」
 家康入部の際、三河の八部と呼ばれた連中を伴って江戸の治安を任せた。
 地方に残った八の連中は、代官が面倒がり厄介がる捕物の下請けをしていた。
 これが、今も「嘘っ八」とか「嘘の三八」と云う言葉が今も残っている語源というのです。

 また、言葉をかえると
 上のように治安をまかせた連中の質が悪く、自分の気に入らぬものをどんどん捕まえて、拷問で自白させ、罪に処したため、「うその三八」という言葉ができたというのも出てきます。(八切止夫著の「任侠と仁義」)

 こう読んでいても【三河の八部】ってなんぞい?みたいな疑問だらけわたくしなのですが…。

【村八部の起り】として『八切止夫集』「1091 論考・八切史観  3」というページを見つけました。
 わたくしが民俗学の本あれこれで読みました【村八部】とはまた少し内容が違うのですが、『八切止夫集』「1091 論考・八切史観  3」記録させて頂きたいと思います。

1091 論考・八切史観  3(http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1091)
『八切止夫集』より村八部の起り

 頼山陽が門下生になり教えを受けた事もある備後神辺の儒者にして詩人でもあった
菅茶山は、文政10年(1827)年8月に死去する前に「福山風俗」「福山志科」
を書き残した。
 その中に備後福山市東の三吉村に、
「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜る時、三河より伴い
きたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
 この水野侯というのは「汝も光秀に肖るべし」と、家康から光秀遺愛の槍を貰った
寵臣で、大坂夏の陣の大和街道の指揮官を勤め、後の島原の乱にて討死にした板倉重
昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落と聞くや、老体に鞭打ち福山から駆け
つけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てていたが、この倅が旗
本白束組の水野十郎左衛門である。
 さて、この福山の三八について、「六郡志」に、
「三八は常に両刀を腰に帯び、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村專故寺の前に
て斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方の事を誌している。
 また「備後御調史料」では、
「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、
普段は捕縛術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先
払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八
または八部衆ともいう」とでている。
 これは「おどま勧進勧進」の五木の子守唄で知られるように、いわば「乞食」扱い
を蔭ではされながら、表向きは刀を二本さし代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召
し捕ってしまい、でっちあげのように牢屋へ放り込んで断罪していた三八の風俗であ
る。今でも言われる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源かこれからだという。
 さて、なぜ百姓が彼らを乞食扱いしたかというと、正規の扶持米ではなく、百姓か
ら役得のように米を巻き上げ、それで寄食していたせいである。
 明治維新で薩摩出身の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、
それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今
も伝わる「村八分」の起こりなのである。
 また、裏日本での「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元日、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀
を貰い受く。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハ
チヤ預けといいて、彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた。」
とあるし、出雲などでは、
「文化4年(1807)松平出羽家書上書」という公儀へ提出の公文書もあり、それ
には、
「当家が雲州の拝領せし後、各郡ごとに「郡廻り鉢屋」を設け郡牢を一個所ずつ置き、
この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ「屋職(やかた)」とよばれ、その下に
「村受け鉢屋」があって、これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担当区内の村民の非
違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の集落移住地
があり、ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練。山陰地方にて名ある武芸者はみな
此処の出身なり」
堂々と書かれている。
 しかし明治7年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が
多く、大正6年調査表の「島根県分布一覧」には僅かに、「鉢屋186戸、長吏17
3戸、番太56戸、得妙3戸、茶筅30戸。計448戸」とある。
 また尼戸の残党が村受け鉢屋や郡代鉢屋になった事の裏付け史料としては、
「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」
「はちや、かもんら永々と篭城のところ、このたびも敵勢取りかかり押しよせし時も、
おおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄8年4月20日、同10
月1日付の尼子義久の花押のある感状が、はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で現
存している。
 「掃部頭」というと、今では井伊大老の事をすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安
政の大獄を指揮したのは彼個人のバイタリティーのみでなく、「公家に対する地家」
つまり「俘囚の末裔が武家である」という民族の血からの、反動的な圧迫だったとも
みられるのである。
 それにもともと公家というのは、「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にはならぬ」
というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住系の末裔をもって兵役を課し、「夷
を以って夷を制す」となし、これが武家の起源であるが、差別の為か蔑視の理由によ
るか、そこまでは解明できないが「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名ぐら
い軽いものしか、武家には与えていない。「清掃人夫取り締まり」とか、「配膳係り
のボーイ」といった扱いだったのが前者の意味であり、後者は「糺」という文字も当
てられ「ただす」と訓されていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始ま
り、大宝令で法文化された延暦11年(792)に「弾正例八十三条」という当時の
刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になる事を嫌った」ごとく、「ただす役割」
もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千金の子は盗賊に死せず」の精神なの
である。だから、よく映画や芝居で「おのれ、不浄役人め」とか「不浄な縄目にかか
るものか」と軽蔑した言葉が出てくるのは、つまり俘囚の子孫が役人だった事に起因
している。
 だからして公家が織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正
忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜
収容所の血統だからである。
 しかし、尾張の織田家を弾正にしたところで、京へ来て「御用、御用」と召し捕り
をやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、明治2年5月に新
政府はこれを復興。同7月に弾正台京都出張本台、4年2月に弾正台京説摂出張巡察
所と、捕物機関を設けたが、後司法省に吸収され、なくなってしまった。

八切 止夫とは
 八切 止夫(やぎり とめお、1914年12月22日?[1] - 1987年4月28日)は、歴史小説家。
 日本シェル出版代表。
「八切史観」と呼ばれる独自の歴史観を展開した。

 まぁ、それがどうした?というお話ではございまするが…

 先日『たわいない数字の話』を記録しておりました事でございます。
 今年読んであきれはてた「論理」も「根拠」も「数字的変化」も「具体的証拠」も何も無い料理駄本に時間をつぶし、へきへきとしていました。なので本日は嘘にからませて「嘘のサンパチ」を記録致しました。
 
 嘘の三八か… 
   八八八八八八
     ハハハハハハ
       八八八八八八
     ハハハハハハ
        ぱちぱちぱち



        おわりん





 みなさま 
 お付き合い下さいまして、誠にありがとう存じます。


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