(写真は、橿原神宮)
35: 『来由紀』
来
由
一
紀
某先生に頼み込んでお願いした資料の一つ『来由紀』を数日前に読む。
神武天皇やら八咫烏やら、地名の名付けか𣘹原うぐいすの話やら、興味深い箇所が多かった。
なので、一昨日、いただいた資料十七枚を徹夜で文字におこしてみた。
『来由紀』は一ヶ所だけに歌が読み込まれ、全体を引き締めている。こういった一首の歌と言うのも洒落たものだ。
また『来由紀』においても 引用が多く、
『○○○○』二 曰
が明記され、くわしい内容が記される場合が多い。
付け加えるが、上、『』は書かれてない。
『来由紀』は歴史の苦手なわたくしには人名などの関係がつかめないので、歴史の史料を見ないと難しい。
だが、わたくしの今までに読んだ絵巻物(種類による)の文字や仏教用語の連発に比べ、読みよい。
是もしかし、絵巻物の題による。
いずれにしても絵巻物も『来由紀』も文字が丁寧で美しいので、走り書きの行書で書かれた規約書などに比べて、読みよいと感じた。
こんなにたいそうに書いているが、わたくしは影印本を読み始めてまだニ、三年ほどであり、全くの初心者。
絵巻物も『来由紀』も文字を解読出来ない事がある。
それは ど忘れであったり、元々知らない文字であったり 様々。
しかし読み進めるうちに前後のつながりで、突然その文字が明るく浮き上がり、わかる事がある。
それは難解な一ピースを右手に握りしめ、はめる箇所が突然浮き上がる、そんな場合に受ける感覚に似ているかもしれない。
読み返したり、時間をおくと、上のような経験が増える。
だから、そういった事も一つの要素として、影印の読み物は面白いのかもしれない。
上にも書いたが、一昨日徹夜で『来由紀』を書きおこした。(といってもいい加減なもので、元字のプリントの横に、書き込んでいる。
そして昨日、書きおこした文字をたどると、ずいぶん間違いに気づく。
また、人名や名詞や単語や文字などをわたくしなりに調べると 一ページで 一、二時間はかかる。
これが表紙を含め十八ページ。
時間がかかるなぁ〜〜と、改めて感じた。
こういった作業をしていると、読書に対する姿勢が変わるのかもしれない。
最近○○時代の 文字は読み易い読み物で内容を調べるといった読み方に取り組んでいるからかもしれない。
上のような読み方をする事も楽しいし、感覚的に読むと言った方法も間違いではない。
これは能楽の鑑賞に似ているのかもしれないとほくそ笑む。
昔わたくしが学生の頃、安部公房先生がその点について教えて下さった事がある。
以前にも書いたと思うが、その話の流れの中で、
「○○の人たちは素直に笑ってくれないんですよ、そんなに難しく考えなくても良いのに。もっと楽しめばいいのに…。」
公房先生のあの鋭い知性的な眼差しの端っこが下がり、同時に口がへの字を描いた瞬間をわたくしは見た。
こういったひとり歩きの素人一般読者側のかた苦しい枠を作った心構えは、作家たちの悩ます一因なのかもしれない。
先生と一緒にいただいたレモンティーのレモンの皮が瞬間的に苦みを帯びた気がした。
大きな大きな大きすぎる作家のひと言は、わたくしが人生において本を遊びととらえる事が出来る影響力を持っていた。
再記する、上は研究者や学生の取り組みにあらず。
わたしのような一主婦のお遊びの場合は 家事などの時間制限や気分的兼ね合いで、色々な読み方や方法を試すのが良いと思う。
そんな訳で、今は内田百聞全集 内第十六巻と旅行本と民俗学関係『ケガレ』(波並恵美子)は感覚的に楽しみ(読み)、『来由紀』や『諸法重宝記大全』一部や○○時代の読み物はとにかく単語やつながりまでだけでもと調べて遊んでいる。
『来由紀』においても、辞書と挌闘するお遊びを続けたいと思う。
他の本も読みたい。芝居能楽も観たい。展覧会も楽しみたい。
行きたいところも多く、我時間の配分がまずいかと不振り返る。
時間が欲しい!
35: 『来由紀』
来
由
一
紀
某先生に頼み込んでお願いした資料の一つ『来由紀』を数日前に読む。
神武天皇やら八咫烏やら、地名の名付けか𣘹原うぐいすの話やら、興味深い箇所が多かった。
なので、一昨日、いただいた資料十七枚を徹夜で文字におこしてみた。
『来由紀』は一ヶ所だけに歌が読み込まれ、全体を引き締めている。こういった一首の歌と言うのも洒落たものだ。
また『来由紀』においても 引用が多く、
『○○○○』二 曰
が明記され、くわしい内容が記される場合が多い。
付け加えるが、上、『』は書かれてない。
『来由紀』は歴史の苦手なわたくしには人名などの関係がつかめないので、歴史の史料を見ないと難しい。
だが、わたくしの今までに読んだ絵巻物(種類による)の文字や仏教用語の連発に比べ、読みよい。
是もしかし、絵巻物の題による。
いずれにしても絵巻物も『来由紀』も文字が丁寧で美しいので、走り書きの行書で書かれた規約書などに比べて、読みよいと感じた。
こんなにたいそうに書いているが、わたくしは影印本を読み始めてまだニ、三年ほどであり、全くの初心者。
絵巻物も『来由紀』も文字を解読出来ない事がある。
それは ど忘れであったり、元々知らない文字であったり 様々。
しかし読み進めるうちに前後のつながりで、突然その文字が明るく浮き上がり、わかる事がある。
それは難解な一ピースを右手に握りしめ、はめる箇所が突然浮き上がる、そんな場合に受ける感覚に似ているかもしれない。
読み返したり、時間をおくと、上のような経験が増える。
だから、そういった事も一つの要素として、影印の読み物は面白いのかもしれない。
上にも書いたが、一昨日徹夜で『来由紀』を書きおこした。(といってもいい加減なもので、元字のプリントの横に、書き込んでいる。
そして昨日、書きおこした文字をたどると、ずいぶん間違いに気づく。
また、人名や名詞や単語や文字などをわたくしなりに調べると 一ページで 一、二時間はかかる。
これが表紙を含め十八ページ。
時間がかかるなぁ〜〜と、改めて感じた。
こういった作業をしていると、読書に対する姿勢が変わるのかもしれない。
最近○○時代の 文字は読み易い読み物で内容を調べるといった読み方に取り組んでいるからかもしれない。
上のような読み方をする事も楽しいし、感覚的に読むと言った方法も間違いではない。
これは能楽の鑑賞に似ているのかもしれないとほくそ笑む。
昔わたくしが学生の頃、安部公房先生がその点について教えて下さった事がある。
以前にも書いたと思うが、その話の流れの中で、
「○○の人たちは素直に笑ってくれないんですよ、そんなに難しく考えなくても良いのに。もっと楽しめばいいのに…。」
公房先生のあの鋭い知性的な眼差しの端っこが下がり、同時に口がへの字を描いた瞬間をわたくしは見た。
こういったひとり歩きの素人一般読者側のかた苦しい枠を作った心構えは、作家たちの悩ます一因なのかもしれない。
先生と一緒にいただいたレモンティーのレモンの皮が瞬間的に苦みを帯びた気がした。
大きな大きな大きすぎる作家のひと言は、わたくしが人生において本を遊びととらえる事が出来る影響力を持っていた。
再記する、上は研究者や学生の取り組みにあらず。
わたしのような一主婦のお遊びの場合は 家事などの時間制限や気分的兼ね合いで、色々な読み方や方法を試すのが良いと思う。
そんな訳で、今は内田百聞全集 内第十六巻と旅行本と民俗学関係『ケガレ』(波並恵美子)は感覚的に楽しみ(読み)、『来由紀』や『諸法重宝記大全』一部や○○時代の読み物はとにかく単語やつながりまでだけでもと調べて遊んでいる。
『来由紀』においても、辞書と挌闘するお遊びを続けたいと思う。
他の本も読みたい。芝居能楽も観たい。展覧会も楽しみたい。
行きたいところも多く、我時間の配分がまずいかと不振り返る。
時間が欲しい!