『ペスト』 2 カミュ著 宮崎嶺雄訳 昭和54年18版
無機質な町 オラン(アルジェリアの要港)は美しい文章で無機質に淡々と描かれる。
この町でそれ以上に特異なことは、死んでいくのに難渋を味わうことである。
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病人は全く一人ぼっちである。云々
オラン(アルジェリア)
903年にイベリア半島のイスラム教徒によって商業の拠点として建設された町がオランの始まりである。
オランはイベリア半島への小麦粉の供給地となり、ムワッヒド朝、ザイヤーン朝の時代に繁栄した。
1509年にスペインのシスネロスに占領され、町は衰退する。
1708年にオランはオスマン帝国に征服される。
1732年に再びスペインが奪い返したものの、オランの貿易都市としての必要性が下がったため、時のスペイン王カルロス4世はオスマン帝国に町を売却した。
1791年にオランはオスマン帝国に編入され、オラン州の州都に定められた。オスマン帝国の支配は1830年にフランスがアフリカの植民地の拠点としてアルジェリアを占領するまで続く。
1831年にフランスに併合された後、ヨーロッパからの入植拠点として近代的な市街地が建設され、20世紀後半のアルジェリア独立後の大都市の原型となった。
フランス植民地時代のオランは200,000人のヨーロッパ系入植者が居住する、ヨーロッパ風の近代的な都市として繁栄を享受していた。
第二次世界大戦時には事実上半ばドイツ占領下にあるヴィシー政権下に置かれ、1942年後半のトーチ作戦で連合国軍によって占領されるまでそれが続いた。
フランス海軍の艦隊がドイツの手に渡るのを恐れたイギリス軍がフランスに対して艦艇をイギリスの港に回航すること、自沈すること、英軍と戦闘を交えること(艦隊を壊すため)などの最後通牒を突きつけるが、フランスはこれを拒否したためフランス艦隊が停泊しているアルジェリアのメルス・エル・ケビールで戦闘が始まった(メルセルケビール海戦)。
オランにも艦艇が10隻ほど存在したため、ここでも戦闘が行われていた。
1954年からアルジェリア独立戦争が始まるまで、オランはフランス領であり、北アフリカの中でも特に多くのフランス人を始めとしたヨーロッパ人(ピエ・ノワール)が居住していた。
しかし、アルジェリア独立戦争が終わるまでにほとんどのヨーロッパ人やユダヤ人がフランスに去った。
特にアルジェリア独立時の1962年7月5日にオランで起きたヨーロッパ人の大虐殺は、彼等のアルジェリア外への脱出を促進した。
これによりオランはわずか3ヶ月で人口が半分にまで減少した。1962年7月5日以降は独立に伴い、アルジェリア領となる。(ウィキペディア)
『ペスト』カミュ作 (全体像) 『ペスト』 1 カミュ著 宮崎嶺雄訳 昭和54年18版 『ペスト』 2 (この町でそれ以上に特異なことは、死んでいくのに難渋を味わうことである。) カミュ著 宮崎嶺雄訳 昭和54年18版