福助人形
ウィキペディアより ▼
福助人形(ふくすけにんぎょう)は、幸福を招くとされる縁起人形。
正座をした男性で、大きな頭とちょんまげが特徴。
頭が大きな人の比喩にも用いられる。
元々は、文化元年頃から江戸で流行した福の神の人形叶福助。
願いを叶えるとして茶屋や遊女屋などで祀られた。
叶福助のモデルとなった人物も実在したと言われている。
松浦清の『甲子夜話』にも登場する。
当時の浮世絵にも叶福助の有掛絵が描かれ、そこには「ふ」のつく縁起物と共に「睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助」と書かれている。
一説に、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルである。
もともと身長2尺足らずの大頭の身体障害者であったが、近所の笑いものになることをうれい、他行をこころざし東海道を下る途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物にでたところ、評判がよく、江戸両国の見せ物にだされた。
江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。
見物人のなかに旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助をとせがんで、旗本某は金30両で香具師から譲り受け、召し抱えた。
それから旗本の家は幸運つづきであるのでおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚し、永井町で深草焼をはじめ、自分の容姿に模した像をこしらえ売りにだした。その人形が、福助の死後、流行した、という。
加藤元悦の『我衣』には、「(文化元年)春の頃より叶福助といふ人形を張抜にせし物大に流行して、一枚絵そのほか種々の物に准へて持運び、後には撫牛の如く蒲団を幾枚も重ね、これを祭れば福祐を増すとて、小き宮に入れて売るものあり」とある。
大田南畝の『一話一言』には、「享保三年冬より、叶福助の人形流行」とある。
撫牛(撫で牛、なでうし)とは、
ウシ(牛)の座像の置物を撫(な)でて自分の病気を治す信仰習俗。
全国に撫牛の信仰や 撫牛の祭祀がある。
上ウィキペディアに書かれた【蒲団を幾枚も重ね、これを祭れば福祐を増す】という内容は、堺市博物館でも、【福の上に座るという意味で座布団(博物館では赤い布)に座る】と説明があった。
大阪 堺市博物館