写真は、『年中行事絵巻』より
立皇嗣宣明の儀とは
立皇嗣の礼(りっこうしのれい)、または立皇嗣礼(りっこうしれい)は、第126代天皇徳仁(今上天皇)が日本の皇嗣である秋篠宮文仁親王の立皇嗣を国の内外に宣明する一連の国事行為で、皇室儀礼。
皇統に属する男系男子が皇位継承資格を有する上で、皇嗣(皇位継承順位第1位にある者)が「皇太子(在位中の天皇の皇男子)」である場合は「立太子の礼(りったいしのれい)」が行われるが、第126代天皇徳仁には皇男子が不在であるため、皇嗣となった文仁親王は実弟であるが、「皇太弟(こうたいてい)」等の称号が定められなかったことから、儀式の名称は「立皇嗣の礼」に決定した。
立皇嗣宣明の儀に始まったが、立太子の礼は南北朝時代以降、約300年間途絶えた。
江戸時代の天和(てんな)3(1683)年に再び挙行されてから、ほぼ同様の方式で大正天皇まで続いた。
「長男が継ぐ」明文化
一方、明治22年に制定された旧皇室典範で、天皇の長男が皇位を継ぐことが明文化される。
42年に制定された「立儲令(りっちょれい)」に基づいて皇居・賢所で行われた昭和天皇の立太子の礼(大正5年)は、既に皇太子である昭和天皇を「お披露目」する場となった。
上皇さまの立太子の礼は昭和27年に実施。
新憲法下での政教分離原則に従い、場所を皇居・仮宮殿に移した上で「宣制の儀」(現在の宣明の儀)、「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」の3つが国事行為とされた。
宣制の儀ではかつて天皇の詔を代読した宣命使(せんみょうし)に倣い、宮内庁長官が昭和天皇の言葉を代読した。
平成3年に行われた陛下の立太子の礼では「儀式の主催者(天皇)が直接、皇太子を披露する方が自然」として、上皇さまがお言葉を述べられ、陛下が決意表明される形に改められ、今回に引き継がれている。
立太子の礼(りったいしのれい)または立太子礼(りったいしれい)
立太子の礼(りったいしのれい)または立太子礼(りったいしれい)は、天皇が日本の皇太子であることを内外に宣明する国事行為たる一連の儀式で、皇室儀礼の一つ。
なお、2019年(令和元年)5月1日に皇嗣となった秋篠宮文仁親王は、これに相当する儀式として「立皇嗣の礼」(りっこうしのれい)を2020年(令和2年)本日、挙行された。
少なくとも奈良時代には、天皇の詔(みことのり)によって皇太子が指名されていた。
平安時代前期の『貞観儀式』にて「立皇太子儀」(りっこうたいしぎ)として定められ、確立された。
10世紀の醍醐天皇からは、壷切御剣(つぼきりのぎょけん/みつるぎ)が皇太子の証として伝承されるようになった。
かつては天皇が複数の候補者の中から、自身の次期後継者となる皇太子を決定していたため、「立太子の礼」を挙行して皇太子を正式に決定すること(立太子)は極めて重要な意義を有していた。
しかし、南北朝時代の崇光天皇(北朝)から江戸時代の後西天皇までの300年余り途絶え、復興されたものの、すでに立太子に先立って儲君治定(後継者指名)が行われるため、立太子の礼の後継者指名としての意味合いは低下していた。
さらに明治時代以降は、皇室典範(旧法、改正後現法)制定により、同法で規定された皇位継承順位に従って皇太子が決定されるため、立太子の礼は完全に儀礼的な行事となった。 明治以降の近代・現代において、立太子の礼が行われたのは、極少での2020年を含めても5例であり、東大寺のお水取りや京都の祇園祭のように長い間つづけられ守られてきた歴史の続く儀では無いらしい。 (ウィキペディア)
尚、天皇たちの衣装の形や色は、先日の天皇になられた時と同様で、『年中行事絵巻』に描かれ、解説されたものと同様であった。