仁勢物語 82段 宗盛 出
宗盛
平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。
母は清盛の継室・平時子。
時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。
官位は従一位行内大臣。
通称は屋島大臣など。
屋島・壇ノ浦の戦い
一ノ谷の戦いで陸上兵力の大部分を失ったことで、平氏は屋島・彦島の海上基地を生命線としてひたすら防御を固めた。
9月に源範頼軍が西国に侵攻すると平氏は陸上戦闘を回避し、水軍により断続的な攻撃を行うことで戦局を打開しようとする。
範頼軍は長門国に達したものの水軍力の不足から彦島を攻略できず、兵粮の欠乏や軍の士気低下に陥った。
元暦2年(1185年)正月8日には、源義経が後白河法皇に範頼軍敗退の恐れもあると奏上するなど、状況は平氏にとって有利に展開していた。
しかし、直後の2月に平氏の本拠地・屋島は背後から義経軍の奇襲を受ける。
屋島の防備は海上に向けられ陸上からの攻撃は想定しておらず、折りしも田口教能率いる平氏軍の主力は伊予国の河野通信討伐のため不在であり、防備は手薄だった。屋島の内裏は炎上し、狼狽した宗盛は海上に逃れる。
海上退避は教能が戻るまでの時間稼ぎだった可能性もあるが、教能は戦わずして義経の軍門に下り、平氏は本拠地だけでなく瀬戸内海の制海権も失うことになった。
時を同じくして九州に渡海した範頼軍に原田種直が撃破され(葦屋浦の戦い)、平氏は完全に包囲される形となった。
平氏は彦島に残存兵力を結集して最後の戦いを挑んだが、3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡した。知盛・経盛・教盛ら一門が入水する中、宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ捕虜となった。
『愚管抄』は「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ(宗盛は水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになった)」とするが、『平家物語』は「西国にていかにもなるべし身の、生きながら捕らわれて、京鎌倉恥をさらすも、あの右衛門督(清宗)ゆゑなり(西国で死ぬはずだった身が、生きながら捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのも、右衛門督のためだった)」という宗盛の言葉を記しており、子への愛情が死をためらわせる原因だったとしている。