祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)
『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-5 【承明門(じょうめいもん)】五紙 中央公論社 小松茂実編
【巻一 承明門(じょうめいもん)】五紙
承明門(じょうめいもん)
『年中行事絵巻』
日本絵巻大成では、じょうめいもん、
ウィキペディアでは、しょうめいもん
承明門(じょうめいもん)は、平安京内裏の内郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。 「南面内門」とも。
承明門(じょうめいもん)(国語大辞典)
内裏(だいり)紫宸殿(ししんでん)の正面にある内門。 内郭の南面中央にあり、外郭の建礼門に対する。 ※内裏式(833)上卯日献御杖式「開二承明門一〈相対開レ之〉先共北面立二門内檀下一」 承明門(じょうめいもん)の屋根は、檜皮葺(ひかわぶき) 『年中行事絵巻』 檜皮葺(ひかわぶき) (日本大百科全書) 檜(ひのき)の樹皮、すなわち檜皮を葺き材料とした屋根葺き方法をいう。 垂木(たるき)の上にこれと直交する方向に一定間隔で桟を打ち、その桟に釘(くぎ)や縄を用いて止めていくが、檜皮は密に重ねられ、その総厚が30センチメートル以上に及ぶことも珍しくない。 棟は普通の瓦(かわら)葺きと同じく棟瓦(むながわら)、のし瓦、鬼板を使って収めることが多い。優美な外観となるが、同じ植物性材料とはいいながら、茅(かや)や藁(わら)に比して高価につくので、宮殿、神社、仏寺などに広く用いられても民家ではめったにみられない。 檜皮葺きをもつ著名な建物としては京都御所の紫宸殿(ししんでん)、清涼殿などの主要殿舎があるが、同じ御所内でも付属屋にはむしろ瓦葺きが多用されている。 これは、貴人の住居には中国風の瓦を避け、植物性材料を用いる古代以来の風習によるものと思われる。 なお仏寺では吉野山蔵王(ざおう)堂が檜皮屋根をもつ最大の建物である。檜皮葺き屋根の耐用年数は15年程度とされるが、檜皮の採取や葺き上げには特殊な技術を要し、かつ森林資源保護の見地からも今後その供給が危ぶまれ、巨大な遺構の修理に支障のおこることが懸念されている。 ただし可燃性材料であるので、市街地における一般建築への適用は法規で禁止されている。[山田幸一] 檜皮葺(ひかわぶき) 神社や寺をお参りすると、檜皮葺(ひかわぶき)を見ることが多い。 春日大社などの様に、檜皮の寄付を募っておられる所を度々見かける。
平安京内裏の内郭門 (日本大百科全書)
宮城(大内裏)の中で天皇の住む一画。
皇居。
難波(なにわ)宮、藤原宮、長岡宮、平城宮などは発掘調査されているが、平安宮はほとんど未調査である。
しかし各種の古図や江戸時代の有職故実(ゆうそくこじつ)家裏松光世(うらまつみつよ)(固禅(こぜん))が残した詳細な考証書『大内裏図考証(だいだいりずこうしょう)』などによって殿舎の配置・規模などはある程度わかる。
内裏は平城宮までは朝堂院(大内裏の正庁)の真北にあり、長岡宮、平安宮では朝堂院のやや東に移された。
これは公的な朝堂院と、天皇の私的な居所を分離したものであろう。
しかし、律令(りつりょう)体制の変質によって、この平面の変化がかえって内裏を政治の中心的な場とし、朝堂院は儀式の場としての性格を強めることになった。
平城宮の内裏として確認されているのは、宮城東寄りの壬生(みぶ)門――朝堂院の北に位置し、第二次内裏といわれた所である。
築地(ついじ)回廊に囲まれた、1辺約180メートルの正方形の地域で、南側には東西9間、南北5間の正殿(平安宮の紫宸(ししん)殿にあたる)などを回廊で囲んだ一画があり、公の宴などが催されたりした場所である。
北側は正殿より少し小さめの殿舎の周囲に建物が配され、天皇が起居する私的な区画であった。
正殿などの殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きで板敷きのものが中心となっていた。
内郭(築地回廊が囲む区域)の外側をさらに築地で囲み、これを外郭という。
広い意味の内裏はこの全体を含み、内郭と外郭の間に、天皇の日常生活と関係の深い官衙(かんが)(官庁)があった。
長岡宮(京都府向日(むこう)市)では、朝堂院の東方に内裏が確認されている。
平城宮と同様外郭が存在しており、内郭は1辺約160メートルの正方形で築地回廊に囲まれ、その南中央に正殿が位置していた。
正殿などの柱は抜き取られて、平安京の造営に使用されたらしい。
平安宮の内裏は大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東にあった。
築地の外郭は東西113丈(約342メートル)、南北100丈(約303メートル)ともっとも大きい。
東部に築地回廊で囲まれた内郭、その北に蘭林坊(らんりんぼう)、桂芳(けいほう)坊、華芳(かほう)坊、西に中和院(ちゅうかいん)、内膳司(ないぜんし)、采女町(うねめまち)があった。
内郭は東西57丈(約173メートル)、南北72丈(約218メートル)で、南側中央に位置する紫宸殿と、その南にある4殿が公的な部分であり、北側に清涼(せいりょう)殿など天皇の私的な殿舎があった。
その北が皇后・女御(にょうご)などの居所がある後宮で、建物は檜皮葺き、素木(しらき)(白木=木地のままの木材)造、板敷きであった。
このように南北に公私を分け、左右対称に殿舎を配する形態は平城宮でもみられたが、各建物を廊で結んだのが平安内裏の特色である。
794年(延暦13)の平安遷都でつくられた内裏は、約160年後の960年(天徳4)に全焼、ただちに木工寮(もくりょう)、修理職(しゅりしき)と27か国に造営を分担させ、翌年完成した。
その後、火災の頻発により、一条殿などの里内裏(さとだいり)が現れ、平安後期になると天皇は日常は里内裏に住み、儀式のときに内裏に帰るようになり、初めから里内裏として造営される邸宅もあった。
鎌倉時代も同様で、本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されていない。
建武(けんむ)の新政で大内裏再建が計画されたものの中止され、南北朝以後は鎌倉末期につくられた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が、内裏として固定する。
ここは規模も小さく、構成なども平安内裏とはかなり異なっていた。
近世に入って規模が拡大され、江戸後期の1788年(天明8)の火災後、紫宸殿、清涼殿などが平安内裏を復原して造営され、1854年(安政1)に焼亡したがすぐ再建され、1869年(明治2)の東京遷都まで皇居であった。
現在の京都御所がこれである。[吉田早苗]
内裏
内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。
都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。