『太宰治全集 10 小説8』より「人間失格」p.367~514 筑摩書房
はしがき
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
上は「はしがき」の出だしである。
「可愛い坊ちゃんですね」
といい加減なお世辞を言っても、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
この性格ともいうべき感覚は、子供の頃から入水して没するまでの間続き、自分でもうちなるところで悩みながらも大きな顔をして大堂を歩くふりをする。
「人間失格」は十代に読んだことがある。
その後も読んだかどうかは覚えていないが、節々覚えている言い回しが複数箇所あった。
「人間失格」を読んでいる最中に、居眠りをしたことがあった。
後生丁寧に分厚い思い全集本を左手で、大切そうに胸の上に立てかけて持ったまま、眠っていた。
太宰を読んでいる途中だったせいか、夢を見た。
昔、十代の頃時々みた懐かしい夢であった。
目を冷ました私は
『小中高校生の頃は、こんんあ夢も見ていたんだ。』
と、フロイトでいうならば希望に満ち溢れた夢にはじかみながらほくそ笑む。
その夢は、某作家の某作品のとある場面であった。
夫に話すと、あまりにも有名なその場面を聞いて、一言で題名を言い当てた。
太宰治作品は2011年頃に何作品か読み直したことがある。
そして今回は「人間失格」
蜷川実花監督の映画『人間失格 太宰治と三人の女たち』を見るにあたって、読んでおきたかったためだ。
実際に「人間失格」は読了し、映画の封切りの9月13日に夫とともに劇場に向かい、泣きに泣いた。
映画作品は最高の部類に値する素晴らしい内容であったので、映画に出てきた小説から中心に、草稿も照らし合わせながらイマイチと読んで見たい太宰作品が多くあった。
また映画では、その周辺の作家とのやり取りや作家との関係も興味深くふふっと笑ってしまった。
懐かしい小説家の名を連ねられ、私は刺激される。
そのあたりの作家作品も再読し、十代の頃の感覚を読む戻したいと言った思いと、今齢を重ねた私が読めばどのようにかん地方が変わっているかも覗き見待機がする。
小中高校に通っていた頃には好んで小説を読みに読んだが、今一度少しは時間を見つけて小説にも時間をとって見たいと思う。
そんな風に感じる蜷川実花監督の映画であり、太宰の原作であった。
映画の感想は次回続けたいと思います。