イラン ナクシェ・ロスタムにて
徳川 宗春(とくがわ むねはる) 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」を読むにあたって、知っておきたいこと。
徳川 宗春(とくがわ むねはる)とは
徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。
尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。
尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。
以下のデーターはウィキペディアによる。
(私が本日読んだ『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』の「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」の内容にあたる部分を載せさせていただいた。)
尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策とも言われているが一方では象まで飼育して楽しみ(苦しんでいた)8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。
歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗からの偏諱を授かって「宗春」と改名した。
改名前の諱は兄徳川吉通の「通」の字を得て通春。
元禄9年10月28日(1696年11月22日)、尾張藩第3代藩主徳川綱誠の二十男として名古屋で生まれた。萬五郎と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院、遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重[注釈 3]の長女)。元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父の綱誠、元禄13年(1700年)に祖父の徳川光友が相次いで没した。
翌正徳3年(1713年)4月に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。
閏5月、江戸に下向した際に同道した尾張藩士2人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。
同月に尾張藩御連枝梁川藩主松平義昌が逝去し、7月には尾張藩4代藩主の兄・吉通が薨去する。
さらに10月には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主五郎太が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。
12月に元服し、求馬通春と名乗る(通称を「求馬」に改めた)。
正徳6年(1716年)2月に第7代将軍徳川家継に御目見し、3月に譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。
同年改元後、享保元年(1716年)7月に第8代将軍徳川吉宗当時の幕府の奏請により従五位下主計頭に叙任される。
享保3年(1718年)4月、疱瘡に罹るが、まもなく回復する。
同月、兄・通温が名古屋城下に蟄居謹慎となる。
12月、従四位下に叙任する。
吉宗から特別に鷹狩の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として将軍吉宗に大切にされる。
享保13年(1728年)、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。
享保15年(1730年)9月、日光社参。11月27日に兄・尾張藩6代藩主徳川継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張徳川宗家を相続し、第7代当主徳川通春となる。
享保16年(1731年)正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・本寿院の蟄居を解く令を出す。
同月に正四位下左近衛権少将に叙任する。続けて従三位左近衛権中将に叙任する。
将軍吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春を名乗る。
3月、従三位参議(宰相)・左近衛権中将に叙任する。
同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。
同年4月、名古屋城へ入る。
名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。
宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の御簾中瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。
名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。
また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。
継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている。
藩士に城下の芝居などの見物も許可した。
当時の幕府は享保の改革を推進する将軍徳川吉宗のもと、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。
それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。
緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の尾張藩となっていった。
ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。
むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。
一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。
名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。
享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布した。
3月には『條々二十一箇條』を発布した。
その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。
この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。
また宗春の治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。
また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた。
さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。
岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。
こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。
享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下る。
先代継友時代、享保10年(1725年)に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日、東照権現徳川家康から藩祖徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。
通説ではその後、5月または9月に将軍吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、
国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
嫡子の初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
倹約令を守っていない
というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、
他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。
第一、領民に迷惑をかけていない
初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
お上は倹約令を守っていないと言うが、私なりに倹約に努めているつもりだ。
ただお上は倹約の根本をご存じないので、おわかりにならないのだろう
と一歩も引かず反論した、と通説では言われる。
遊廓・芝居の縮小へ
このように積極的に町を活気づける政策をとってきた宗春も、やがてみずからの路線を変更せざるを得なくなる。
宗春によって突然無制限に与えられることになった芝居や遊廓の楽しみは、一方では町の繁栄を推進するものであったが、他方で、それに溺れて武芸・家業をおろそかにし、争いごとを起こしたり、困窮におちいったりする人々を生み出し、風俗の悪化を招いた。
その上、宗春のはなはだしい浪費は、藩の財政を破綻させつつあった。
宗春が発足させた独自の政策は、行き詰まりをみせてきた。政策変更のきざしは、享保19年(1734年)4月、藩士に対して遊行(興)所徘徊を慎しむことを命じた(『御日記頭書』、ただし『遊女濃安都』はこの仰出を享保20年とする)ときからみえ始めた。
翌享保20年(1735年)3月28日には、家臣に対して遊所見物所、すなわち遊廓や芝居場所を徘徊することを、はっきりと禁止した。
以前から宗春は、遊興は、あくまでも武芸・家業に励んだのちの楽しみとして認めるのだと「御咄書」などで諭していたし、膝だけ白い紺股引をはいた側組足軽二人に町中を巡回させて、人々が逸脱しないよう気を配っていたのであったが、そういったことでは間に合わなくなってきたの である。
さらに翌享保21年(1736年)三月には、家中・寺社・百姓・町人に対して、「遊所見物所を免許して風俗も温和になるかと期待したが、過分の金銀を使い捨て、奉公の勤めを欠く者が多い。他の批判ももだしがたいので、遊女や茶屋女を置くことを禁止すべきかと思う程である」と警告した上で、同月、「西小路・冨士見原・葛町の三廓を廃止する。しかし突然のことで難儀をする者も多いであろうから、憐愍の上、右三か所のうち、いずれか一か所につぼめて営業することを許す。芝居は、古来あった分はそのままでよいが、新規の芝居小屋は取り払うように」との法令を発した。
そして追い打ちをかけるように同じ月に「京都大坂伊勢から招き寄せた遊女茶屋女を、4月中旬までに残らず送り返すように」との命令を出したのであった。
ところが期限切れ2日前の4月18日、西小路から火災が起こり、遊廓の多くを焼いた。このため西小路はもちろん冨士見原・町の茶屋も撤退し、三廓の地はもとの空地になってしまった。撤退した業者の多くは、橘町・門前町・日置村などに引っ越して、料理茶屋の名目で密かに遊女を置いていたのである。なお享保20年(1735年)9月、将軍吉宗から宗春に薬用人参(いわゆる御種人参)七本と甘草一〇本の苗が下賜された。ちょうど宗春が政策転換をはかった時期のことである。藩ではこれを御下屋敷薬園に植えて大切に育て、やがて栽培に成功する。栽培が宗春の意志によるものか、藩の重臣の意志によるものかさだかではないが、宗春が好んで住居とした下屋敷に植えたことからみて、やはり宗春自身が将軍と融和してゆく方向に政策を転換したことの一つのあらわれとみてよいであろう。
芝居、『夢の跡』
徳川宗春を演じた役者を描いたらしいが、私は見たことがない。
https://books.google.co.jp/books?id=wpkA8VD1tnMC&pg=PA87&lpg=PA87&dq=夢の跡%E3%80%80歌舞伎&source=bl&ots=2lReOFsfvJ&sig=ACfU3U0yJSnCWNzotepWTVfv7J01DAAkCg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiqoM7T_r3jAhWCUN4KHeC8DNwQ6AEwA3oECAgQAQ#v=onepage&q=夢の跡%E3%80%80歌舞伎&f=false
『夢の跡』
お名残狂言として 大正七年に明治座で興行されたことがあるようだ。
享保という時代 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって
『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「八代将軍徳川吉宗と享保の改革」竹内誠、「享保の改革と江戸」竹内誠 農民の作物育成の邪魔もせず、民衆もかわらけで楽しませる。水に触れると溶けるというかわらけ。これなら、作物が育つ上で邪魔にはならない。
『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「享保の渡来象始末記」太田尚宏 綱豊卿は後の家宣。家宣の孫(綱吉の子)としての紀伊からの頼宣が八代将軍徳川吉宗。吉宗は実学好きで、日頃海外にも目を向けており、象も輸入。
徳川 宗春(とくがわ むねはる) 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって、知っておきたいこと。
徳川 宗春(とくがわ むねはる) 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」を読むにあたって、知っておきたいこと。
徳川 宗春(とくがわ むねはる)とは
徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。
尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。
尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。
以下のデーターはウィキペディアによる。
(私が本日読んだ『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』の「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」の内容にあたる部分を載せさせていただいた。)
尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策とも言われているが一方では象まで飼育して楽しみ(苦しんでいた)8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。
歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗からの偏諱を授かって「宗春」と改名した。
改名前の諱は兄徳川吉通の「通」の字を得て通春。
元禄9年10月28日(1696年11月22日)、尾張藩第3代藩主徳川綱誠の二十男として名古屋で生まれた。萬五郎と名付けられる。母は側室の梅津(宣揚院、遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重[注釈 3]の長女)。元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父の綱誠、元禄13年(1700年)に祖父の徳川光友が相次いで没した。
翌正徳3年(1713年)4月に江戸へ移り、星野藤馬を小姓とする。
閏5月、江戸に下向した際に同道した尾張藩士2人が吐血頓死・割腹自害する事件が起きる。
同月に尾張藩御連枝梁川藩主松平義昌が逝去し、7月には尾張藩4代藩主の兄・吉通が薨去する。
さらに10月には、甥で吉通の跡を継いだ5代藩主五郎太が逝去し、兄・通顕が継友と改名して6代藩主となる。
12月に元服し、求馬通春と名乗る(通称を「求馬」に改めた)。
正徳6年(1716年)2月に第7代将軍徳川家継に御目見し、3月に譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。
同年改元後、享保元年(1716年)7月に第8代将軍徳川吉宗当時の幕府の奏請により従五位下主計頭に叙任される。
享保3年(1718年)4月、疱瘡に罹るが、まもなく回復する。
同月、兄・通温が名古屋城下に蟄居謹慎となる。
12月、従四位下に叙任する。
吉宗から特別に鷹狩の獲物を数度賜り、吉宗お気に入りの譜代衆と共に紅葉山東照宮の予参を命じられるなど、御家門衆として将軍吉宗に大切にされる。
享保13年(1728年)、実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ下向する。
享保15年(1730年)9月、日光社参。11月27日に兄・尾張藩6代藩主徳川継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張徳川宗家を相続し、第7代当主徳川通春となる。
享保16年(1731年)正月、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可・本寿院の蟄居を解く令を出す。
同月に正四位下左近衛権少将に叙任する。続けて従三位左近衛権中将に叙任する。
将軍吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春を名乗る。
3月、従三位参議(宰相)・左近衛権中将に叙任する。
同月、政治宣言の著述『温知政要』を著す。
同年4月、名古屋城へ入る。
名古屋入府の際の宗春一行は、華麗な衣装を纏い、また自身も鼈甲製の唐人笠と足袋まで黒尽くめの衣装(金縁・内側は赤)と漆黒の馬に騎乗していたという。
宗春は名古屋に戻ると、4代藩主吉通の御簾中瑞祥院(九条輔子)の実家の九条家に3千両を寄付し、朝廷との関係を大切にした。
名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励した。
また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。
継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わせ、その際に奉行以上の重職たちにも閲覧させている。
藩士に城下の芝居などの見物も許可した。
当時の幕府は享保の改革を推進する将軍徳川吉宗のもと、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。
それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。
緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和(消費奨励ではない)の尾張藩となっていった。
ただし規制緩和のみではなく、神社仏閣への公式参拝には束帯騎馬の正装で赴き、幕府の法令も先回りするなど、宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。
むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。
一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。
名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。
享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布した。
3月には『條々二十一箇條』を発布した。
その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。
この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。
また宗春の治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている(密偵は使わなかった)。
また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた。
さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。
岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。
こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。
享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下る。
先代継友時代、享保10年(1725年)に火事で焼失した江戸上屋敷市谷邸が新築再建され、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。5月5日、東照権現徳川家康から藩祖徳川義直が拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見てもらうために、市谷邸を江戸町民に開放した。これは新築された市谷邸の披露も含まれている。
通説ではその後、5月または9月に将軍吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。その内容は、
国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
嫡子の初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
倹約令を守っていない
というものだった。これに対し宗春も、一応上意として受けるも、
他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。
第一、領民に迷惑をかけていない
初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ、家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
お上は倹約令を守っていないと言うが、私なりに倹約に努めているつもりだ。
ただお上は倹約の根本をご存じないので、おわかりにならないのだろう
と一歩も引かず反論した、と通説では言われる。
遊廓・芝居の縮小へ
このように積極的に町を活気づける政策をとってきた宗春も、やがてみずからの路線を変更せざるを得なくなる。
宗春によって突然無制限に与えられることになった芝居や遊廓の楽しみは、一方では町の繁栄を推進するものであったが、他方で、それに溺れて武芸・家業をおろそかにし、争いごとを起こしたり、困窮におちいったりする人々を生み出し、風俗の悪化を招いた。
その上、宗春のはなはだしい浪費は、藩の財政を破綻させつつあった。
宗春が発足させた独自の政策は、行き詰まりをみせてきた。政策変更のきざしは、享保19年(1734年)4月、藩士に対して遊行(興)所徘徊を慎しむことを命じた(『御日記頭書』、ただし『遊女濃安都』はこの仰出を享保20年とする)ときからみえ始めた。
翌享保20年(1735年)3月28日には、家臣に対して遊所見物所、すなわち遊廓や芝居場所を徘徊することを、はっきりと禁止した。
以前から宗春は、遊興は、あくまでも武芸・家業に励んだのちの楽しみとして認めるのだと「御咄書」などで諭していたし、膝だけ白い紺股引をはいた側組足軽二人に町中を巡回させて、人々が逸脱しないよう気を配っていたのであったが、そういったことでは間に合わなくなってきたの である。
さらに翌享保21年(1736年)三月には、家中・寺社・百姓・町人に対して、「遊所見物所を免許して風俗も温和になるかと期待したが、過分の金銀を使い捨て、奉公の勤めを欠く者が多い。他の批判ももだしがたいので、遊女や茶屋女を置くことを禁止すべきかと思う程である」と警告した上で、同月、「西小路・冨士見原・葛町の三廓を廃止する。しかし突然のことで難儀をする者も多いであろうから、憐愍の上、右三か所のうち、いずれか一か所につぼめて営業することを許す。芝居は、古来あった分はそのままでよいが、新規の芝居小屋は取り払うように」との法令を発した。
そして追い打ちをかけるように同じ月に「京都大坂伊勢から招き寄せた遊女茶屋女を、4月中旬までに残らず送り返すように」との命令を出したのであった。
ところが期限切れ2日前の4月18日、西小路から火災が起こり、遊廓の多くを焼いた。このため西小路はもちろん冨士見原・町の茶屋も撤退し、三廓の地はもとの空地になってしまった。撤退した業者の多くは、橘町・門前町・日置村などに引っ越して、料理茶屋の名目で密かに遊女を置いていたのである。なお享保20年(1735年)9月、将軍吉宗から宗春に薬用人参(いわゆる御種人参)七本と甘草一〇本の苗が下賜された。ちょうど宗春が政策転換をはかった時期のことである。藩ではこれを御下屋敷薬園に植えて大切に育て、やがて栽培に成功する。栽培が宗春の意志によるものか、藩の重臣の意志によるものかさだかではないが、宗春が好んで住居とした下屋敷に植えたことからみて、やはり宗春自身が将軍と融和してゆく方向に政策を転換したことの一つのあらわれとみてよいであろう。
芝居、『夢の跡』
徳川宗春を演じた役者を描いたらしいが、私は見たことがない。
https://books.google.co.jp/books?id=wpkA8VD1tnMC&pg=PA87&lpg=PA87&dq=夢の跡%E3%80%80歌舞伎&source=bl&ots=2lReOFsfvJ&sig=ACfU3U0yJSnCWNzotepWTVfv7J01DAAkCg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiqoM7T_r3jAhWCUN4KHeC8DNwQ6AEwA3oECAgQAQ#v=onepage&q=夢の跡%E3%80%80歌舞伎&f=false
『夢の跡』
お名残狂言として 大正七年に明治座で興行されたことがあるようだ。
享保という時代 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって
『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「八代将軍徳川吉宗と享保の改革」竹内誠、「享保の改革と江戸」竹内誠 農民の作物育成の邪魔もせず、民衆もかわらけで楽しませる。水に触れると溶けるというかわらけ。これなら、作物が育つ上で邪魔にはならない。
『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』から「享保の渡来象始末記」太田尚宏 綱豊卿は後の家宣。家宣の孫(綱吉の子)としての紀伊からの頼宣が八代将軍徳川吉宗。吉宗は実学好きで、日頃海外にも目を向けており、象も輸入。
徳川 宗春(とくがわ むねはる) 『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』「徳川宗春の実像と治政 御庭番の職務などに関する史料を読む。」(徳川林政史研究所監修 東京出版社)を読むにあたって、知っておきたいこと。