屋久島
五十年に一度といった屋久島の大雨で多くの登山者が余儀なく足止めされ、自分たちの体験を思い出した。
以前にも何度か書いたことがあるかもしれないが…
屋久島には六回ばかり行ったことがある。
別荘(土地のみ)を持っていたこともあって、夫の休暇を利用して一度行けば二週間から四週間。
まだ、屋久島が世界遺産に登録される前のことだった。
屋久島の北部あたりでは私たちの姿を見た現地の方は、まるで外国人を見るような目つきの方もいらっしゃった。
大半は屋久島の南側に滞在していた。
その頃は某ホテルの泊まりことが多かったが、たまに永田浜の近くの無料の小屋に長期宿をとることも一度ばかりあった。
永田浜はウミガメが卵をうむ浜が近くにあったが、山登りやらマンネリ化やら自動車乗用などで体の疲労が見られ、私を含めて家族は次々に屋久島には珍しい個人病院に足を運んだ。
この先生は中国人の方で、日本の医療に対して、熱く語られる方であった。
屋久島に行くのは、山に入ることが目的であった。
白谷雲水峡が好きで、白谷山荘という小屋に何泊も止まったことがあった。
白谷雲水峡の近くは美しい川が流れ、水が豊かで、苔深く、小人が出てきそうな緑の世界であった。
小屋を管理して下さっていらっしゃった方に出会ったことがあった。
彼は近くにヤクザルが来ることを教えてくださり、また、りんごなどを差し入れて下さった。
彼は、
「食べ物を外に置いておくとヤクザルが持って行くよ。」
と注意しながら笑っておられた。
小屋は多くの登山者がいらっしゃる日もあれば、私たち家族四人だけの日もあった。
屋久島の山中には美しい場所が多くあるが、有名な屋久杉には何度も行った。
当時は囲いもなく、木道もなかった。
屋久杉の麓というか屋久杉の根元の真下でコーヒーやココアを飲んだ。
朝食には進々堂(パン屋)のレーズンたっぷりの硬いパン(これが重い)を切って食べた。
時には、ラーメンを作り食べることもあった。屋久杉に集う家族。あの頃が懐かしい。
屋久杉は私たちを温かく迎え、時には背もたれんもなってくれたり、自然の尊さを語ってくれた。
屋久杉の木肌を痛める方も少なかったようで、その頃は元気な屋久杉であった。
屋久島の山の中では、雨がしばしば降った。
大雨のこともあったが、小雨のこともある。
晴れた日もあったが、霧雨は日常茶飯事。ガスは多くの日にかかっていた。
屋久島には人間二万、ヤクザル二万、ヤクシカ二万
ヤクザルやヤクシカには何度も遭遇下が夜中のシカは私たちもしかも互いに怖がっていた。
また、ヤクザルは木の実を食べていることが多かった。
一度屋久島の山々を縦断したことがあった。
登山の初めには天候は良く、晴れ渡っていた。
見送りのホテルのバス運転手に下山を告げ、山に入った。
投石平(なげしだいら)までは天候が良く、木一本なぐ大きな岩ばかりのの中でテントを張った。
この日は暑く、日が照りつけていた。
投石平でテントを張り終え、ゆっくりとしていた頃、隣のテントの鹿児島大学の学生がバタバタとテントをたたみ始めた。
理由をとうと、嵐が来るとのことであった。
見ると、全部のテントが畳み掛けられていた。
私たちの大急ぎでテントをたたみ、先に進んだ。いつしか雨が降り始め、大雨に変わった。大雨が私たちを叩き上げた。
しかし小山では到底到達できない。私たちは結構広い目に岩屋を見つけることができ、家族四人足を延ばすことができた。
こわごわ岩屋の中を確かめたが動物はいなかった。
動物と共に嵐の中、。岩屋に隠れると云った児童文学を思い浮かべていた。
私たちが避難した岩屋の外は大雨が叩きつっけ横風が吹いて、岩屋の中に強雨を放水した。
私たちがテントを張っていた投石平の方向には、音をたて光を放つ雷が何度も落ちていた。
もしあそこにテントを張り続けていたならばと思うと、ゾッとする。
翌日、大雨の中大急ぎで小屋に向かった。
割合に大きな避難小屋であったが、人は多かった。
まだ一階も二階もスペースが空いていたので、私たちは二階に詰め詰めで寝袋を敷き、横にはスペースを空けておいた。
その後多くの人たちが、小屋になだれ込んできた。
皆はロープを張って、濡れた衣類などを乾かしていた。
予定外の嵐で予定が狂ったせいか、中には期限の悪い登山者もいた。
私たちは二階で助かったが、一階で口論している方々もいらっしゃった。
小屋には二泊ばかりして、体力を温存した。
子供を二人連れていたこともあり、食料は多めに持っていたので、助かった。
小屋を出発して歩く。
天気は少し回復し始めた。
花山歩道では、峰の上で蛭に襲われた。
まだ小さかった息子の膝などに集中して昼が這い上がってきた。
峰で驚き大声を出した息子。手を強く握っていたため、滑落は避けられた。
昼を払い落とし、峰を逃れた時点で、息子のズボンにバンドエイドを貼っておまじないをした。
息子は泣き止み、自分の気持ちを子供なりに整え、先に進んだ。
しばらくすると道が消えていた。
夫は谷の方向に向かおうとした。急な坂で、荷物も持てない状態であった。
慎重な私は行かないと言い張り、倒木に座り込んだ。四日ばかり歩いた道のりを戻るつもりであった。
夫はどんどんと下に進んだ。
私は座り込んでいたが、具と獣蜜のような道を見つけた。
救われた。
私は大声で、夫を呼んだ。
夫は時間をかけて元の場所に戻ってきてくれた。
私たちはなお先を進んだ。
しばらく歩いていると、正道の下山に向かう登山者が私たちを抜かす。
私は、彼らに伝言をたくし、迎えの車に伝えていただいた。
私たちは三日遅れで下山でき、ホテルの車に乗った。
運転手は、下山者に聞いていたので安心したと笑ってくださった。
山は何が起こるかわからない。
判断のミスが大きな事故につながる可能性がある。
私たち夫婦も幼い子を連れての屋久島縦断といったミスを犯し、ホテルにも心配をかけたであろうと思うと頭がさがる思いである。
嵐の中のの判断と、獣道のような場所を見つけて助かったが、いっぽ間違っていれば大変なことになっていたかもしれない。
この時を境に、登山はやめた。
五十年に一度といった屋久島の大雨で多くの登山者が余儀なく足止めされ、自分たちの体験を思い出した。