幸四郎丈が文化功労者に決定
平成24年度文化功労者に松本幸四郎の選出が決定したことが、文部科学省より発表されました。その発表を受けて幸四郎が会見に臨み、「今日まで支えてくださったスタッフの皆さん、家族、友人、そして何より、幸四郎を応援してくださり、劇場に足を運んでくださったファンの方々に感謝します」との言葉とともに、選出された喜びを語りました。
日米からご褒美
10月の七世松本幸四郎追遠の興行出演中に、文化功労者選出の知らせを受けた幸四郎。8月にミュージカル『ラ・マンチャの男』の上演1200回を迎えた折、カーテンコールで、脚本を手がけたデール・ワッサーマンの遺言により、未亡人からトニー賞のトロフィーを譲り受けたこととあわせ、「日米からご褒美をいただいた感じがします」と、喜びを表しました。
一報を聞いて家族は、「男らしく反応してくれました。心はこもっているけど"おめでとうございます"とさっぱりと。染五郎のリハビリの励みにもなったのでは」とのこと。
3歳で初舞台を踏み(昭和21年5月東京劇場『助六』外郎売の倅)、以来67年、「よく途中であきらめずに今日までやってこられた」と万感の思いを胸に秘め、「苦しいことを苦しいのみにせず、悲しみを悲しみのままに終わらせないで、苦しみを勇気に、悲しみを希望に変えるのが俳優という職業」と語りました。
全部引き受けて挑戦してきた
「正直言うと、楽ではなかった」「いつも崖っぷちを落ちないように歩いてきた」と、これまでの苦難を思いつつも「いろんな目に遭ったとき、どういう決断を下したが大事に思います」と振り返りました。襲名や『勧進帳』1000回公演(平成20年)などと並び、『ラ・マンチャの男』ブロードウェイ公演への出演(昭和45年)も、下した大きな決断の一つ。「歌舞伎の手法で英語のせりふを覚えました。つまり、名人の芸をまねる。英語のせりふを一言一句まねたんです」と、当時のエピソードも飛び出しました。
歌舞伎以外の演劇でも数多くの出演を重ねている幸四郎だけに、作品をつくりながら夜明けを迎える日々が続き、「一日が28時間くらいあればいいのに」と思うときもあったそうです。「そこそこにやるのはやめ、徹底してやる。妥協せず、ガチンコ勝負だから、なおさらつらかったのかな」と、自らの生き方に思いを馳せました。そして、至った今日。「歌舞伎と現代劇を演じるうえでの切り替えが、若い頃はマニュアルだったのが、40数年やってきて、最近ようやくオートマチックになりました」と、微笑みました。
本当の"歌舞伎"を残したい
文化功労者となってからの今後について聞かれ、「私は"今"が好きなんですね。舞台は瞬間のものであって、二度と帰ってこない。今が本当に愛おしい、その積み重ねです」と答えた幸四郎。そのうえで、「九代目幸四郎がお客様にとって、いい形で残ってくれれば。それがすべてです」と言います。
しかし、歌舞伎については少し違います。「私が<木の芽会>という勉強会をしていた昭和30年代後半から40年代頃、九代目團十郎、初代吉右衛門、六代目菊五郎を見て知っていた老優たちが伝えてくれた歌舞伎が、私の中に感覚的に残っています。そういう歌舞伎を残せたら」。それが、「本当に"いい古いもの"は古いままでも、いつの時代も新しいと信じて今までやってきた」という幸四郎の、今後に向けての思いのようでした。
2012年10月30日 (歌舞伎美人より)
幸四郎丈が文化功労者 に決定☆
幸四郎さま、おめでとうございます☆
歌舞伎美人で知りました