乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5 「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」
気がつけば、乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱が多いことに気づく。
だいたいはわかる。感覚ではわかる。
だが、その実、しっかりと内容を把握せず、日常的に使っている言葉。
歌舞伎鑑賞歴は随分と長いが、その実、「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」の違いをはっきりと認識してない。
そういった言葉に気づいた時点で、これからも取り上げていこうと思う。
「清元」
① 「清元節ぶし」の略。
② 清元節の家の名。
(大辞林 第三版)
《日本舞踊》 清元 「お祭り」 坂東三津二郎
「清元」
1.歌舞伎の伴奏音楽 - 清元節
清元節(通常、単に清元と呼ばれます)とは、江戸時代後期(文化11年・1814年)に生まれた三味線の伴奏による豊後節系浄瑠璃の一つで、浄瑠璃の諸流派の中では最も新しいものです。
創始者は清元延寿太夫(初世、1777~1825)で、初代富本斎宮太夫の門弟になり、二世富本斎宮太夫を襲名しました。その後富本節から独立して、文化9年9月中村座にて豊後路清海太夫の名で、再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)に出演しております。
その後文化11年11月、市村座公演より清元延寿太夫を名乗り清元節を興しました。
清元は、主に歌舞伎の伴奏音楽として発展してきましたが、歌舞伎を離れた、純粋な観賞用音楽としての作品群もあります。
2.古典声楽の中の「語りもの」- 浄瑠璃
清元は浄瑠璃の一つです。
この「浄瑠璃」という言葉は、清元を理解する上で一つのキーワードなわけですが、その時代や人々、状況によって異なる使われ方をして、多義的で曖昧な単語ですから、少なからず説明が必要と思われます。
伝統的に古典声楽においては、その諸作品を「語りもの」と「唄もの」に大別しており、この「語りもの」を通称、浄瑠璃と呼んでいます。
又、この浄瑠璃を語る人のことを、一般的に太夫と呼びます。
「語りもの」には、義太夫節、一中節、常磐津節、新内節、清元節、浪曲、等があり、「唄もの」には、地歌、長唄、小唄、等があります。
「語りもの」はその名のとおり本来的には、叙事的な、ストーリー性の強い歌詞を歌い、又、「唄もの」は叙情的な歌詞を歌うわけですが、実際は「語りもの」の中にも叙情的な部分があり、「唄もの」のなかにも叙事的な部分はあるわけで、音楽的にはこれは、程度の問題と言わざるをえません。
例えば、浄瑠璃(「語りもの」)の一つであった繁太夫節は、現在 地唄に吸収されていたり、又、各浄瑠璃にしましても、当時のはやり唄を取り入れていたりと、両者の違いは、その歴史的な系統ということが、主な違いであります。
その為、演奏者の意識としては、「語りもの」では、旋律的な美しさの追求よりは、日本語の抑揚を活かし言葉を語るような感覚で歌う事が重要視され、又、「唄もの」では、この語る感覚よりは、旋律的な美しさを重要視する、という傾向にあると思われますが、現実にはこれも個々の演奏者の解釈により差があり、更に、一つの流派の中でも、各作品によって違い、当然、一つの作品の中でも、場所によって違うわけであります。
つまり、この「浄瑠璃」という言葉は、現在において、古典声楽を分類する際に、その系統上の違いを表すために便宜上用いられているだけといった感じで、浄瑠璃と唄ものを概念的に区別するのは、非常に困難な事でしょう。
因みに、「浄瑠璃」という言葉の起源ですが、これは、織田信長の侍女であった、小野お通の作であるといわれる、牛若丸と浄瑠璃姫を題材にした「浄瑠璃十二段草子」という物語を、室町時代後期に琵琶法師たちが琵琶の伴奏で語りだしたものが普及して、その為、「浄瑠璃」という登場人物であるお姫様の名前が、語り物の代名詞として用いられたといわれています。
3.江戸浄瑠璃の流れ
さて、清元は「豊後節」と呼ばれる浄瑠璃の流れを汲む音楽で、先ずはその辺りから述べることにしましょう。
豊後節は宮古路豊後掾(1660~1740)によってはじめられた浄瑠璃です。
豊後掾は京都の人で、一中節の始祖、初代都太夫一中(1650~1724)の門人で、はじめ都国太夫半中といい、上方の歌舞伎に出演しておりましたが、師の没後、宮古路豊後掾となり、やがて江戸に下って(享保19年・1734)、江戸で爆発的に流行しました。
心中道行物を題材としたその曲調は、艶があり官能的で、煽情的なものであったようですが、当時の江戸では心中事件が頻繁に起こっていたため、風紀を乱すという理由で、元文4年(1739)豊後節は禁止されました。その後、豊後掾は何人かの弟子たちを残して、江戸を去って京都へ帰り、元文5年(1740)にこの世を去りました。
この豊後掾の弟子に宮古路小文字太夫という人がいました。
彼は幕府による豊後節弾圧の後、兄弟子の宮古路文字太夫が常磐津節を起て、常磐津文字太夫となった折(延享4年・1747)、その傘下に入り、常磐津小文字太夫と名乗りましたが、翌年の寛延元年(1748)には、常磐津節から独立し、富本節を興し、富本豊前太夫と名乗り流行しました。
清元節は、更にこの富本節から分かれて出来たものです。
4.延寿太夫の代々
清元節の先祖と言われていますのは、富本節の太夫である初代富本斎宮太夫(1727~1802)という人です。この人は、もと九州筑前の藩士清水多左衛門の次男で徳兵衛といいましたが、江戸へ出て宮古路豊後掾の門人となり、宮古路斎宮太夫となりました。その後、富本節に入り富本斎宮太夫と改名しました。これが57歳の時で、それから訳あって清水屋太兵衛と改めて茅場町で米屋をしていましたが、初代豊前太夫の没後、剃髪して清水延寿斎と名乗り、二代目豊前太夫の後見をしていました。これが清元で代々の家元が「延寿」と名乗る起こりです。
清元節を興したのは、この初代富本斎宮太夫の弟子である初代清元延寿太夫(1777~1825)です。この人は横山町の岡村屋という油商の子で岡村吉五郎といいましたが、幼少のころから音曲を好み、寛政9年(1797)二代目富本斎宮太夫になりました。しかし、師匠である初代富本斎宮太夫の没後、富本節の家元であった二代目富本豊前太夫と不和になり、独立して、文化8年豊後路清海太夫を名乗り、その後、文化11年(1814)に清元延寿太夫と名乗って清元節を興しました。初代延寿太夫は世間の評判を博し、非常な勢いでありましたが、文政8年、市村座に出た帰り不慮の事故により亡くなりました。
二世延寿太夫(1802~1855)は初代延寿太夫の実子で最初は栄寿太夫を名乗っていましたが、父の没した翌日から市村座へ出て、これが人々の評判をとり文政8年(1825)二世延寿太夫を襲名しました。この人は大変な美声家であったようで、その粋で洒脱な語り口はそれまでの清元浄瑠璃の流れを変え、今日の清元の礎を築いたと言われております。
三世延寿太夫は、二世延寿太夫に男子がいなかった為、その弟子である浅草の材木商藤田屋の子繁次郎が妹婿となり、延寿太夫を襲名しましたが、流行り病で安政5年に38歳の若さで没しました。
四世延寿太夫(1832~1904)は谷中の三河屋という質屋の子である斎藤源之助が二代目の婿養子になり、二世の娘である清元お葉(1840~1901)と結婚して安政五年延寿太夫を襲名しました。四世は河竹黙阿弥の作品を多く初演し、大変な美声で評判をとりました。 妻のお葉も又大変な名人で、幕末から明治初期にかけて活躍し、清元節の名曲「三千歳」はこの人の作曲です。初代市川九女八、三世哥沢芝金とともに明治の女性芸人の三幅対といわれました。
五世延寿太夫(1862~1943)本名岡村庄吉。この人は、始め三井物産の社員で、趣味で清元をやっておりましたが、三井を退職した後、明治23年、四代目延寿太夫とお葉の養子となり、明治27年五世延寿太夫を襲名しました。五世は、その広範な学識により、明治時代の高尚趣味にマッチした知性的な語り口で、以前の退廃的な曲調を上品なものに改め、清元節を広く世間にアピールし、今日の清元の方向性を示唆した名人です。
六世延寿太夫(現家元の父)昭和元年生れ。本名岡村清道。父は惜しまれつつ早世した四世栄寿太夫。昭和16年栄寿太夫襲名、NHK放送隅田川で祖父五世家元のワキを語り披露。昭和23年延寿太夫襲名、四月演舞場に於て助六を語り披露。三味線栄寿郎の薫陶を受け、その語り口は格調高く繊細。
昭和55年8月病に倒れ同62年1月再発、2月5日不帰の人となる。墓所は歴代家元の眠る深川浄心寺。
七世延寿太夫(現宗家家元)昭和33年8月12日、東京高輪生まれ。本名岡村菁太郎。父六世清元延寿太夫、母多喜子(六代目尾上菊五郎の次女)。四才で「延寿会」の舞台を踏む。昭和56年3月「藤間会」で清元菁太郎デビュー。"偏路"を語る。同5月六代目尾上菊五郎三十七回忌追善興行の歌舞伎座で"魂まつり"。同9月九州巡業興行で"吉野山"。昭和57年2月菊五郎劇団興行で"雪の道成寺"を務める。同5月六世栄寿太夫を襲名。歌舞伎座の"保名"及び"三社祭"で披露する。
平成元年3月七世延寿太夫を襲名。
5.梅吉の代々
初世梅吉(1841~1907)清元梅次郎の門下。慶応3年(1867) に寿兵衛と改名。その後明治3年に弟子の清元梅三郎に梅吉の名を譲りました。作曲に「宮比御神楽」。実子は三代目清元太兵衛を名乗りました。
二世梅吉(1854~1911)本名松原清吉。初世梅吉の弟子。神田の生まれ、初名を梅三郎、慶応4年10月江戸中村座で初舞台。明治3年(1870)に二世梅吉を襲名。四世・五世清元延寿太夫の立三味線を務め、妻は四世延寿太夫の長女はる。作曲に「隅田川」「三千歳」「清海波」「雁金」などがあります。
三世梅吉(1889~1966)本名松原清一。神田生まれ。大正から昭和にかけての清元三味線の名人で、父である二世梅吉に師事し、明治38年(1905)二世清元梅三郎を襲名し、明治44年(1911)三世梅吉を襲名。昭和30年(1955) 孫の梅太郎に梅吉の名を譲り、自身は二代目清元寿兵衛を襲名しました。梅吉襲名以来、家元である五世延寿太夫の相三味線を弾いていましたが、後に延寿太夫と不和になり、大正11年(1922) 12月、清元節の新たな流派として「清元流」を興し家元となりました。
作曲に「幻お七」「津山の月」などがあります。
四世梅吉(現清元流家元) 昭和7年(1932) 赤坂生まれ。本名松原清之介。父は三世梅吉の養子である初世清元梅寿太夫。前名は清元清之介、昭和21年清元梅太郎を襲名。昭和30年(1955) 歌舞伎座において四世清元梅吉を襲名。昭和42年(1967)祖父二世寿兵衛の死去により、清元流二世家元を継承。松原奏風の名で自身が起こした新邦楽『奏風楽』の演奏・作曲も行い、東明節では東明吟清、荻江節では荻江友次郎の名も持つ。歌舞伎興行には流儀として昭和52年(1977)頃を最後に出演せず、舞踊会や素浄瑠璃の演奏会を主な活動の場としています。 また、演奏のみならず作曲の才能にも優れ、清元はもとより自身が創始した奏風楽、小唄、などの作曲が多数に及んでいます。
6.清元の現在
清元流創流以来、清元は、清元延寿太夫を家元とする「宗家高輪会」と、清元梅吉(寿兵衛)を家元とする「清元流」の二つの流派に別れて発展してきました。
昭和39年(1964)外部の仲立ちと、両派の家元、演奏家同士の話し合いで、延寿太夫を会長とし、寿兵衛を名誉会長とする清元協会が設立されました。これにより両派の歩み寄りが期待されましたが、合同演奏が実現しないまま清元流が清元協会から離脱し、最近に至るまで二つの流派の交流は有りませんでした。
平成22年(2010)、NHKエンタープライズの企画・仲立ちにより、八十八年ぶりの延寿太夫・梅吉、両家元コンビによる合同演奏会が催されました。この画期的な合同演奏を契機として両派の交流が深まり、平成23年に「清元協会」が再び両派合同で運営されるという協会設立時の形に戻って、より一層の清元の発展を目指し現在に至っております。
【監修】 清元美治郎
清元資料館 清元の歴史概要より引用させていただきました。
「常磐津」
三味線音楽の一流派。
一般には単に「常磐津」と呼ぶ。
豊後節から派生した浄瑠璃で,広義の豊後節の一派。
創流者は1世常磐津文字太夫。
師である宮古路豊後掾の始めた豊後節が江戸幕府から禁止されたため,延享4 (1747) 年改名独立して新流を開いた。
初め関東文字太夫と称したが,奉行所から関東の姓を差し止められて常磐津と改めた。
以後代々の家元はほとんど常磐津文字太夫の名を継ぐ。
流派結成の翌年家元のワキを語っていた常磐津小文字太夫 (富本豊前掾〈1世〉 ) が独立して富本節を樹立,以後勢力争いが絶えず,分派と復帰 (合流) を繰り返した。特に万延1 (1860) 年4世常磐津文字太夫のときに起こった5世岸沢式佐を中心とする三味線方の岸沢派の独立は大きな事件であった。7世常磐津小文字太夫 (常磐津林中 ) の時代に両者の和解がなったが,死後再び分裂。
1927年常磐津協会のもとにその対立は解消した。
今日常磐津の演奏家は,ほとんどが常磐津か岸沢の姓を名のる。創流以来常磐津節は歌舞伎と提携しながら舞踊音楽として発展した。その結果,舞踊に適した音楽であることを第一義とし,リズムやテンポの変化は少なく,語り方も清元節のように細かい技巧を凝らさず,発声法も比較的自然で,全体に重厚で素朴な味を特色とする。広義の豊後節のなかでは最も語り物的要素が強い。三味線は中棹を用いる。
『蜘蛛の糸』『関の扉』『双面』『戻駕』『将門』など武張った豪快な時代物舞踊劇に優れた作品が多いと同時に,『乗合船』『三世相』など市井風俗を盛り込んだ陽気で滑稽な内容の曲にもぬきんでている。明治・大正期には名人常磐津林中の出現によって常磐津節は隆盛期を迎えるが,同時に明治の高尚趣味を反映した新作活動も盛んとなった。
『竹生島 (→竹生島物 ) 』『紅葉狩』『釣女』『お夏狂乱』『駕屋』『狐火』『戻橋』などの名曲が生まれた。代表曲としては以上のほかに『靫猿』『老松』『角兵衛』『三人生酔 (さんにんなまえい) 』『道中双六』『宗清』『山姥 (やまんば) 』などがある。
「常磐津」
浄瑠璃の流派の一。
延享4年(1747)常磐津文字太夫が創始。江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した。
時代物にすぐれ、曲風は義太夫節に近い。
(デジタル大辞泉)
日本舞踊◆ 常磐津 将門 坂東寛二郎 中村富美香
「長唄」
三味線を伴奏楽器とする歌曲の一種。
歴史的名辞は江戸長唄。
歌舞伎と歩みをともにし,当初はその演奏者の出生地にちなんで江戸長唄,大坂長唄などと記されていたが,劇場出演者が江戸出身者によって占められるようになって,享保 12 (1727) 年以降,単に長唄と呼ばれるようになった。
初期の長唄は目の不自由な音楽家の伝承音楽の影響下にあって,上方風の三下りの優艶な曲が多く,『娘道成寺』『鷺娘』などの傑作がある。
その後,一中節より転向した富士田吉治 (富士田吉次〈1世〉 ) によって,浄瑠璃の曲風を摂取した唄浄瑠璃の様式が創始され,また上方風を脱却した曲もつくられるようになった。
2世杵屋六三郎,1世杵屋正次郎の活躍した明和,安永,天明期 (1764~89) には長唄独自の性格が確立され,化政期 (1804~30) 以後,別家9世杵屋六左衛門,別家 10世杵屋六左衛門,4世杵屋六三郎らによって『越後獅子』『賤機帯 (しずはたおび) 』『鶴亀』『勧進帳』などの名曲が作曲されて,江戸長唄の全盛期を迎えるとともに,六左衛門家は長唄宗家としての地位を不動のものとした。
また文政9 (1826) 年,10世六左衛門が大薩摩の家元の権利を預ったことにより,その曲節を利用した曲もつくられるようになった。幕末から明治にかけては積極的に能の三味線音楽化をはかり,2世杵屋勝三郎の『船弁慶』『安達原』あるいは3世杵屋勘五郎の『望月』などが作曲された。
また,長唄そのものを芸術的歌曲として鑑賞しようという態度も養われ,それとともに舞台の制約を離れた演奏本位の長唄も誕生した。4世杵屋六三郎の『吾妻八景』,10世杵屋六左衛門の『秋の色種』はその代表。
1902年4世吉住小三郎,3世杵屋六四郎による研精会の結成も,長唄を一般家庭に普及させ,それ以後,各流派による演奏会も数多く開かれるようになった。長唄はその内容が多種多様ではあるが,便宜上これを大別すると次のようになる。
(1) 舞踊曲長唄 『越後獅子』『娘道成寺』『五郎』『鷺娘』など。
(2) 浄瑠璃風長唄 『安宅の松』『靫猿』『賤機帯』『綱館』など。
(3) 謡曲風長唄 『竹生島』『船弁慶』『望月』『鶴亀』など。
(4) 演奏本位長唄 『吾妻八景』『秋の色種』『四季山姥 (しきのやまんば) 』『紀文大尽』など。
(5) メリヤス 『黒髪』『明の鐘』『五大力』『無間の鐘』など。
(ブリタニカ国際大百科事典 )
杵屋裕光 『二人椀久』 "Ninin Wankyu" Hiromitsu Kineya
「義太夫」
義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。
17世紀末に成立し、播磨節、嘉太夫節、小唄などを融合した、豪快華麗な曲節が特徴である。
近代においては豊竹山城少掾が芸格を広めた(山城風)。
人形浄瑠璃の伴奏に、またそれを元にした歌舞伎の義太夫狂言(丸本歌舞伎)
なお、浄瑠璃は義太夫節のことであるという説明が往々にして見られるが、これは誤りである。
義太夫節はあくまでも浄瑠璃の一流派であって、同一のものではない。
(ウィキペディア(ウィキペディア)
「義太夫」
義太夫節の略で、浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派。
もともとは、現在の文楽につながる人形浄瑠璃の音楽やせりふ、ナレーション、効果音などとして生まれた。
人形浄瑠璃では、近松門左衛門らによって名作が生まれ、それが歌舞伎にもとり入れられた。
歌舞伎の世界では、その演目を「義太夫狂言」という。
群馬には県古典芸術義太夫協会という組織があり、会長は安中市松井田町の八城人形浄瑠璃城若座保存会の原田徳四郎会長(90)が務めている。
(2007-11-23 朝日新聞 朝刊 群馬全県 1地方)
菅原伝授手習鑑 ~寺子屋の段~
乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 1 「引歌」と「本歌取り」
乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 2「影印」と「印影」、「影印本」(景印本、影印)と「覆刻本」
乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 3 丈(じょう )と 丈(たけ)
乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 4「草紙」と「草子」と「双紙」と「冊子」
乱鳥の今更人に聞けない言葉の混乱 5「清元」と「常磐津」と「長唄」と「義太夫」
ご覧くださいまして、ありがとうございます。