天誅組 3 天辻の本陣跡(五條市)
天誅組 1 中山忠光 天誅組の変
天誅組 2 公卿中山忠光 尊王攘夷 天誅組の変
天誅組 3 天辻の本陣跡(五條市)
天辻の本陣跡(五條市)、文久3年(1863年)8月18日
(天誅組本陣跡てんちゅうぐみほんじんあと)大塔町 天辻維新歴史公園 五條市HP
八月十八日の政変が起こり長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚し、攘夷親征を目的とした大和行幸は中止。
挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となった。
天誅組は天の辻の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発し、吉村寅太郎は五条の医師乾十郎とともに十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)に入り、反乱に加入を説得。
吉村 虎太郎(よしむら とらたろう、天保8年4月18日(1837年5月22日) - 文久3年9月27日(1863年11月8日))
幕末の土佐藩出身の志士。
諱は重郷。
一般には「寅太郎」と記されることが多い。
土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。
平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。
釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵する
八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変)
ウィキペディア引用
その結果、野崎主計ら十津川郷士960人を募兵して兵力は膨れ上がったが、烏合の衆に過ぎずその武装は貧弱なものだった。
野崎主計 のざき かずえ
1824-1863 幕末の武士。
文政7年生まれ。大和(奈良県)十津川(とつがわ)の郷士。
梅田雲浜(うんぴん)に師事する。
文久3年天誅(てんちゅう)組の挙兵にくわわるが敗退,責めが郷里におよばぬよう謝罪書をのこし,同年9月24日自刃(じじん)した。40歳。名は正盛。
ブリタニカ国際大百科事典 引用
十津川郷士 とつかわごうし
大和 (奈良県) 吉野郡十津川地方の郷士。
十津川千本槍などと称し,全郷民が南朝の遺臣と伝えており,江戸時代には五条代官所に属して公租を免じられていた。
幕末には尊攘派志士に加担し,天誅組の変 (→大和五条の変 ) には多くの郷士が参加,戊辰戦争には多田,山科の郷士とともに御親兵となった。
十津川の人々も半ば脅迫されて急きょかき集められた。
しかも休息も食事もなく戦闘に参加せられるなど、戦意に乏しかった。
ブリタニカ国際大百科事典 引用
あまりの酷さに玉堀為之進や植田主殿ら十津川郷士は指揮官に抗議したが、中山らに憎まれ天辻峠で斬首されている。
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