(玉龍雪山 中国)
『人情噺小判一両』
この芝居、笊屋(ざるや)という設定だね^^
これって民俗学の本によく出てくるんだけれど、農業の閑散期などに、毎年決まった村に売って歩いたんだって。
村にやってきて、ざるや籠を売り歩き、いつの間にか村からいなくなるんだって。
でも、毎年毎年やってこられるらしい。
民俗学の本では、どこからやってきて、一体どこに帰っていくのか、村人はみんな知らないって書いてあったよ。
これって明治か大正時代までのお話らしいので、お芝居ではもっと昔ダネ。
だから、ちょっと勝手が違うかな^^
お芝居の中でも何度も何度も笊屋(ざるや)さんの立場に触れられ、結局それも含めて芝居は大きく転じ結末を迎えるんだね。
基本的にはそういったこともふまえてこの話はつくられているのかしらん?
安七「籠に紙を貼って頭に乗せると…」
こども「頭に籠を乗せると背が伸びないから嫌だよ。」
確かに、「頭に籠を乗せると背が伸びない。」って聴いたことがありますね^^
籠と言えば「籠目(かごめ)」に民俗学の研究者で触れられている方が多いよ。
六角の籠目がいっぱいあって、魔除けになるらしく、屋根の上に乗せるところもあったんだって。
魔除けが転じて厄になるのかな?
そういえば籠の「籠目(かごめ)」
こんな歌がございましたね
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ…
…なんだか恐ろしげですね。
魔除けが転じて厄になる
このお芝居も籠屋さんの情けが仇となり、侍は自害した…。
作者宇野信夫とは
埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。
父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。
1933年、『ひと夜』でデビュー。1935年、6代目尾上菊五郎のために書いた『巷談宵宮雨』が大当たりし、歌舞伎作者としての地位を確立する。以後も菊五郎のために歌舞伎世話狂言を書き、戦後は、1953年、2代目中村鴈治郎、中村扇雀(現:4代目坂田藤十郎)のために、長らく再演されていなかった近松門左衛門の『曽根崎心中』を脚色・演出し、現在も宇野版が上演され続けている。1965年、個人雑誌『宇野信夫戯曲』を創刊、1977年まで続いた。
1972年、日本芸術院会員。1985年、文化功労者。『宇野信夫戯曲選集』全4巻があるほか、ラジオドラマ、テレビドラマ、時代小説、随筆、落語、言葉に関する著作が多数ある。
国立劇場理事を務め、歌舞伎の演出、補綴、監修を多く行い、「昭和の黙阿弥」と称された。
『人情噺小判一両』
この芝居、笊屋(ざるや)という設定だね^^
これって民俗学の本によく出てくるんだけれど、農業の閑散期などに、毎年決まった村に売って歩いたんだって。
村にやってきて、ざるや籠を売り歩き、いつの間にか村からいなくなるんだって。
でも、毎年毎年やってこられるらしい。
民俗学の本では、どこからやってきて、一体どこに帰っていくのか、村人はみんな知らないって書いてあったよ。
これって明治か大正時代までのお話らしいので、お芝居ではもっと昔ダネ。
だから、ちょっと勝手が違うかな^^
お芝居の中でも何度も何度も笊屋(ざるや)さんの立場に触れられ、結局それも含めて芝居は大きく転じ結末を迎えるんだね。
基本的にはそういったこともふまえてこの話はつくられているのかしらん?
安七「籠に紙を貼って頭に乗せると…」
こども「頭に籠を乗せると背が伸びないから嫌だよ。」
確かに、「頭に籠を乗せると背が伸びない。」って聴いたことがありますね^^
籠と言えば「籠目(かごめ)」に民俗学の研究者で触れられている方が多いよ。
六角の籠目がいっぱいあって、魔除けになるらしく、屋根の上に乗せるところもあったんだって。
魔除けが転じて厄になるのかな?
そういえば籠の「籠目(かごめ)」
こんな歌がございましたね
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ…
…なんだか恐ろしげですね。
魔除けが転じて厄になる
このお芝居も籠屋さんの情けが仇となり、侍は自害した…。
作者宇野信夫とは
埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。
父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。
1933年、『ひと夜』でデビュー。1935年、6代目尾上菊五郎のために書いた『巷談宵宮雨』が大当たりし、歌舞伎作者としての地位を確立する。以後も菊五郎のために歌舞伎世話狂言を書き、戦後は、1953年、2代目中村鴈治郎、中村扇雀(現:4代目坂田藤十郎)のために、長らく再演されていなかった近松門左衛門の『曽根崎心中』を脚色・演出し、現在も宇野版が上演され続けている。1965年、個人雑誌『宇野信夫戯曲』を創刊、1977年まで続いた。
1972年、日本芸術院会員。1985年、文化功労者。『宇野信夫戯曲選集』全4巻があるほか、ラジオドラマ、テレビドラマ、時代小説、随筆、落語、言葉に関する著作が多数ある。
国立劇場理事を務め、歌舞伎の演出、補綴、監修を多く行い、「昭和の黙阿弥」と称された。