写真は、東博にて。ペルシャの皿。
『太宰治』1 岩波新書560
「再入門」一回一回が「入門」 3
〈大人の場所〉
未熟な読者もいつか歳をとる。
→やがてはっきりと見限ることで人はおのれに区切りをつける。
自らを振り返り、吟味し、自惚れ、卑下し、呆れ果て、さらに許すこともできるような、幅のある練れた心のあり方、それを〈大人〉の場所としてイメージする。 6
生きてきた目印
『津軽』引用
「大人というものは、侘しいものだ。」
「侘しいものだ」で、十分に大人の感性。 7
このように読むんだ!
『津軽』 8
〈自分さがし〉の物語
〈さがす自分〉をこそ探し出し、かたちづくろうとする、意識的造形。
子守のたけ(タケ)と再開するシーンから読み手が受けとるものは、何のあいまいさもない。あるいはあいまいか否か、意識的か否かどうかはでもよくなってしまう。それが他ならぬ感動。
【あいまいか否か、意識的か否かどうかはでもよくなってしまう。それが他ならぬ感動。】を読み、『梅忠』「封印切の場」の私の味方は穿っているのではないだろうか。「今回は切れてしもた型」「今回は切ってやった型」など、もやはどうでも良いことではないか。むしろ『恋飛脚大和往来』を見たての頃は、「封印切の場」とて純粋に何も考えずに感動していたではないか。今まさに、本書にて、初心に戻された気がする。ここですでに、読み始めて良かったと感じる。
『津軽』には子守が出てくる。
できれば明日、『津軽』を用意したい。
上に純粋に楽しみたいと書いたばかりなのに、子守という立ち位置を太宰治氏がどのように描いたのか、初心者の私は気にかかる。
子守は、民俗学では多くの方々が取り上げられているからだ。
しかしこういった読み方も、脇道にそれ、よくないような気がする。
私は文学部に行きたかったと今になって随分後悔しているので、好き勝手に読むのではなく、これからは大胴で真面目に学ぼうと思う。
涙の量を調節するということは、何とも妥協に満ちた不潔なことのように見えた。 8
こういうことは、観劇や日常生活においても行なっていはしまいだろうか、と反省し、他人の目を気にせず自分の感性に従って、もっと自分本位に自由に楽しむようにしたい。
純、不純のこだわりがこうじれば、この世にあたって、感動できるものの数はどんどんと減っていってしまう。 9
(序 1/2)
『太宰治』
細谷博著
岩波新書560
215ページ
多分、軸から外れた読み方をしてるのでしょうけれど、そのうち鳥にも羽毛が多少は生えるかもしれないと期待しています。
みなさま、いつも拙ブログにお付き合いくださいましてありがとうございます。