南畑歌舞伎一座・日出座・鶴沢三枝碑と地蔵堂 (4景)明治 奈良県生駒郡
奈良県生駒郡三郷町信貴南畑に在る南畑歌舞伎一座・日出座・鶴沢三枝碑と地蔵堂を見つけました。
信貴山の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)から、大門池の方向に行き、南畑に降りて来る途中に気づきました。
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の紅葉 2021.11.20 (3景)歌舞伎の好きな私には、お宝との出会いでした^^
明治の話とはいえ、奈良の生駒の村の一座が道頓堀に登りを立てて、名を挙げていたとは、芝居の歴史も面白いものだと感じた。
「修善寺物語」が十八番であったと書かれているが、日出座復活劇が望めないのは、心寂しい。
石碑の残されるあたりの村の家々を眺めてみると、のどかな良い眺めで、懐かしささえ感じるような山中であった。
原付で気軽に向かった生駒山の一部に満喫した感が濃い時間を過ごすことができたことに感謝している。
「修善寺物語」とは
岡本綺堂の戯曲。
一幕三場。 明治44年(1911)発表、同年初演。
源頼家の命で作った面に、頼家の運命を暗示する死相が現れた話を通して、伊豆の 面 おもて 作り師 夜叉王 やしゃおう の名人気質を描く。
岡本綺堂とは
岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日(明治5年10月15日) - 1939年3月1日)
小説家、劇作家。
本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)
別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。
新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。
養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者で、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。
南畑歌舞伎一座
明治二十二年(1889)頃、南畑に「日出座」という歌舞伎一座があった。
地元の人たちから南畑歌舞伎と呼ばれ親しまれていた日出座・座長の鶴沢三枝の碑が、この裏手にある。
三枝は地元の青年に歌舞伎を教え一座を結成し、南畑を中心に法隆寺や田原本、更に大阪でも講演したという。
その頃の日本は、清国と交戦して勝利を得たものの不景気となり、大阪の道頓堀の芝居も経営不振となったので、この「日出座」に代わって晴れの舞台に出演し、「日出座さんへ」というのぼりが道頓堀になびいたという。
慶應生まれの鶴沢三枝こと森惣三郎氏は、名優と言われていた。
高さ1mの石碑は、63歳になった三枝を祝って門弟たちが建てたもので、碑面には「日出座・鶴沢三枝」と大きく刻まれている。
三枝が南畑の地で一座をおこした当時は娯楽の少なかった時代だけに、その芸は地元をはじめ各地の人達を魅了し喝采を得たことであろう。
尚、第二次大戦後(昭和二十三年頃)南畑青年団が青年芝居を復活され、「修善寺物語」が得意であったという。」と書かれていた。