アラン『定義集』11 「真摯(しんし)Sincèrite」(もっとも曖昧な言葉の一つ。真摯というのは、もっと思惟を必要とするものだし、何よりもまず、もっと確実さを必要とする。)
アラン『定義集』 P、149 150より抜粋
真摯(しんし) Sincèrite
もっとも曖昧な言葉の一つ。
人は隠すことのできない人間の最初の動きを真摯と呼ぼうとするが、それはできない。
なぜなら、最初の動きは、しばしば、全くあてにならないから。
隠そうとするのは、全く考えてもいないことを慌てて言ってしまう臆病者の中に見られるように、本能であるから。
真摯というのは、もっと思惟を必要とするものだし、何よりもまず、もっと確実さを必要とする。
人が真摯と言えるのは、話し相手を疑わないで、ゆっくりと自分の考えを説明する時間がある場合だけである。
こうした友好的な状況以外では、もっとも真摯な人間は、誤ったことは何も言わないこと、誤解されかねないことは何も言わないこと、またもちろん、確かな考えでないことは必ず黙っていることを、規制とするだろう。
こうして真摯は、誰かを判断しなければならない時、あるいは誰かに対して賛否を明かししなければならない時、慎重となる。
思い浮かんだことをなんでも言う軽率な人は、真摯とは言われない。
要するに、真摯は考え抜かれているか、それともなんでもないかである。
真摯(しんし)とは
[名・形動]まじめで熱心なこと。また、そのさま。「真摯な態度」「真摯に取り組む」
真摯に受け止め、、、とは
アランの『定義集』によれば、上に書き写したように、
もっとも曖昧な言葉の一つ。
真摯というのは、もっと思惟を必要とするものだし、何よりもまず、もっと確実さを必要とする。
要するに、真摯は考え抜かれているか、それともなんでもないかである。
と分析されている。
テレビのニュースを見ていると、事件や事故に関して責任者が謝罪をしている映像見ることがあります。
謝罪会見ではお決まりのフレーズとなっているものに「●●を真摯に受け止めて…」という表現が多用されていますが、多くの場合、軽く表現に感じられますのは私だけでしょうか?
少なくとも「真摯に受け止め」という言葉を使う場合には、指摘や批判について、「しっかりと聞いて反省している」ことを表した誠意ある言葉でなければなりません。
ただ、思うに、「真摯」いう言葉をアラン『定義集』で読む限りにおいては、以前からそういう風に軽々しく多用されていたのかもしれませんね。
モーリス・サヴァン刊行
神谷幹夫 翻訳
岩波文庫
青656-4
訳者 神谷幹夫
北星学園大学・文学部・教授
アラン『定義集』1 (フランス国立図書館にある木箱の中に、アランの手稿の264枚のカードがある 訳者覚書より) アラン『定義集』2 (言表の単純な厳密さによって静謐な徳、イデオロギーとは無関係の、論争では得られない徳、即ち全ての真の省察の原型であり、源泉である徳を、獲得している。) アラン『定義集』3 (アランはいう、…哲学者が目指しているものは、自然的で自分に嘘をつかないものだけを感じ取ることである。哲学者の欠点は、避難する傾向が強いこと、そして懐疑を解くことを好むことだ。) アラン『定義集』4 「文明 civilisation」(他のところではよく吟味もされず、特に驚きもなく受け入れられている実践を、不可能にする。例えば、奴隷制、子どもの去勢、拷問、魔法使いの処刑。) アラン『定義集』5 「平等 égalité」(平等は一つの法的支配の状況であって、窃盗、権力の濫用、侮辱などの不平等の結果を裁かなければならない時、力の比較を排除するもの) アラン『定義集』6 「エゴイズム égoisme」(身体の境目と結びついた思考であり、快楽を選び量るように、苦しみや病気の予見を遠ざけることに専念した思考) アラン『定義集』7 「寓話 Fable」(人の心を傷つけないで、ちょっと厳しい真理を理解させようとする、素朴な形式の説話) アラン『定義集』8 「論理 logique」 説明(経験論/ アリストテレス/ 論理学/ デカルト/ カント/ 超越論的論理/ ベーコンとは?) アラン『定義集』9 「哲学 philosophie」(ほとんど全ての善が、またほとんど全ての欲望が空しいと考えることによって、失望や屈辱に対して自らに警戒をうながす魂の按排である。) アラン『定義集』10 「プラトン主義 platonisme」(肉体の美しさは魂の完全さのしるしでしかないと考える、愛の一つの性格。そのような魂の完全さこそ、重大な関心事だと主張する。) アラン『定義集』11 「真摯(しんし)Sincèrite」(もっとも曖昧な言葉の一つ。真摯というのは、もっと思惟を必要とするものだし、何よりもまず、もっと確実さを必要とする。)