『邯鄲枕物語』「艪清の夢」三世桜田治助作 2014 中村歌六 中村壱太郎 市川染五郎
以前にも見た『邯鄲枕物語』「艪清の夢」を見た。
面白かったが、途中で二度も寝てしまい、巻き戻してなんとか最後まで見る始末。
口直しにと、超!短い^^中村壱太郎の「和楽器と歌舞伎で『世に駆ける』」を楽しむ。
同じ動きの繰り返しを試み、和楽器の軽快な重厚感でノリノリ^^
見ている私も、フリフリ、ノリノリ^^
壱太郎の小指の絡ませ具合の間が良く、あら!ま!袖からまして歌舞伎してるじゃん!と楽しんだ。
歌舞伎役者もこういうのは、大いに、有りだわ!!!
明治座 五月花形歌舞伎 『邯鄲枕物語』「艪清(ろせい)の夢」
三世桜田治助による『邯鄲枕物語』は、通称「艪清の夢」ともいわれるように、艪職人清吉が見た夢物語が展開する作品。
大金の遣い道に困り果てる清吉の姿をユーモアに見せることで、栄枯盛衰の人生ドラマを明るくほのぼのと描きます。
本興行としては、明治38(1905)年の明治座での上演以来となる珍しい復活上演。
中村歌六
女房おちょう/梅ヶ枝 中村壱太郎
艪屋清吉 市川染五郎
邯鄲の枕(かんたんのまくら)
邯鄲の枕(かんたんのまくら)は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ。
多くの派生語や、文化的影響を生んだ。黄粱の一炊、邯鄲の夢など多数の呼び方がある。(ウィキペディア)
邯鄲の枕(かんたんのまくら)
「盧生(ろせい)」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。
盧生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。
するとその道士は夢が叶うという枕を盧生に授ける。
そして盧生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻したりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。
子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。
しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。
ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮上がってさえいなかった。
全ては夢であり束の間の出来事であったのである。
盧生は枕元に居た呂翁に
「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」
と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。
中国においては粟のことを「黄粱」といい、盧生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。
いわゆる、日本の落語や小説・漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。
同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。
現在ではほとんどの言葉が使われることがなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。(ウィキペディア)
能楽『邯鄲』
能『邯鄲』は、『邯鄲の枕』の故事を元に作られた能の演目である。
しかし道士・呂翁にあたる役が、宿屋の女主人であり、夢の内容も『枕中記』とは異なり、『太平記』巻25などに見えるような日本に入ってから変化した『邯鄲の枕』の系譜上に位置づけられると言えよう。
舞台上に設えられた簡素な「宮」が、最初は宿屋の寝台を表すが、盧生が舞台を一巡すると今度は宮殿の玉座を表したりと、能舞台の特性を上手く利用した佳作である。
なお、盧生の性格や描写から憂いを持つ気品ある男の表情を象った「邯鄲男」と呼ばれる能面が存在し、能『邯鄲』の盧生役のほか、能『高砂』の住吉明神などの若い男神の役でも使用される。
芥川龍之介は能『邯鄲』をモチーフにして『黄粱夢』という作品を書いた。
また三島由紀夫は『近代能楽集』の中に能『邯鄲』を現代風の戯曲に翻案した作品を書いている。
また古井由吉も『邯鄲の夢』をモチーフに『邯鄲の』という作品を書いている。(ウィキペディア)