今昔狐夜噺 5 (いまハむかし きつねのよばなし) 三丁裏 四丁表 上、中、下 十返舎一九 画・作
早稲田大学図書館 (Waseda University Library)所蔵
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_01216/he13_01216.html
今昔狐夜噺 上,中,下 (合本)
十返舎一九 画・作 1765-1831
1冊(合3冊) ; 18cm
[江戸] : [榎本屋吉兵衛], [寛政9(1797)]
黄表紙
今昔狐夜噺三丁裏
かのこん八
ぎつねハ、らく
さいに、い
と□□(欠け)
もと□□(欠け)
これまでの
御おんなが/\
ふねくるまにも
つまれねほどの
ありがたさ、おん
れいにハふくを
さづけてあげ
たくても、そんな
事ハおきらい也、
きつねとせうで
あらわし(まま)うへハ
うまいものをあげ
ても、うまのふん
かとおぼしめす
であろふこのうへハ
何もおなぐさみ
せんねんにてみしが、わうい
とき見ました げんへいの
うつせんいちのたに、さか
おとし、ゆしまのさかいの
よふすを、今このおゆわ
さきにていたく御らんににいれ
ませう、とゝんまれなる大どうぐ
今昔狐夜噺四丁表
まくなしにて
おめにかけま
せう、まづさい
しよが、いちの
たに、すまの
うら、へいけがた
ぢんちうの
ていをいたして
おめにかけんと
せうじを
ひらきみせ
けれバ、はるか
のむかふに
ぢんちうの
ありさま
いちのたにの
やまにより、なみうち
ぎわまでさくゆいわたし
あかはた、てんにふき
なびきと、
ふたバぐんきの
もんくのとふ
りてにとる
ど□□(欠け)へ
□□□(欠け)らく
□(欠け)い大きに
かんしんして
みとれいる、
今昔狐夜噺三丁裏 中
「さいしよ
御らんに
いれまする
が、いちの
たに、す
まのだ
いりの
けいしよく
これも
これ
よに
いります
れば
てう
ちんたい
まつひ
をとも
して
おめ
にかけ
ます、
今昔狐夜噺三丁裏 下
「まだ
/″\はい
ふきより
じやをいだ
しする
ほんに、ことき
をつくして
おめにかけ
ませふ、
今昔狐夜噺四丁表 下
「いや
はや
おそろかし
さまご ことし
のさまごにや
ゆだんが
なら
ぬ
今昔狐夜噺三丁裏
かの こん八狐は、
楽斎に、い
と□□(欠け)
もと□□(欠け)
これまでの
御女が、御女が、
船来る間にも
積まれね程の
有難たさ、御礼
には福を
授けて
上げたくても、そんな
事はお嫌い也、
狐と性で(性根を)
現す(あらわし ママ)上は
美味い物をあげ
ても、馬の糞
かと思し召す
であろふうこの上は
何も御慰み、
千年にて見しが、多い(わうい)
時見ました 源平の
討つ 戦、一の谷、逆(さか)落とし
湯島の境の
様子を、今この、おゆわ
さきにていたく御覧に入れ
ましょうと、とんと(とん)稀なる大道具
今昔狐夜噺四丁表
幕無しにて
お目にかけま
しょう、先ず最初が、
一の谷
須磨の浦
平家方
尋常の
程を致して
お目に掛けんと
障子を
開き見せ
ければ、遥か
の向こうに
尋常の
有様
一の谷の
山により、波打ち際
まで索ゆ 言い渡し(いわたし)
赤旗、天に吹き
靡きと、
双葉軍記の
文句の通り
てに、とる
ど□□(欠け)へ
□□□(欠け)らく
□(欠け)い大きに
感心して
見とれいる、
今昔狐夜噺三丁裏 中
「最初
御覧に
入れまする
が、一の谷
須磨の
内裏の
けいしょく
此れも
此れ
世に
入ります
れば、
提灯
松明
を灯して
お目
に掛け
ます、
今昔狐夜噺三丁裏 下
「まだ
まだ、はい
ふきより
じやを出(いだ)
しする
ほんに、事、気
を尽くして
お目に掛け
ましょう、
今昔狐夜噺四丁表 下
「いや
はや
恐ろ(おそろ)かし
さまご、 ことし
のさまごにや
油断が
なら
ぬ
さまご
?
一の谷 (ウィキペディア)
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8(1118)年2月に摂津国福原および須磨で行われた戦い。(源平合戦)における戦いの一つ。
逆(さか)落とし (ウィキペディア)
精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。