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『玉あられ』本居宣長著 1 「玉霰序」三井高蔭(「玉霰序」資料2/6枚 + 『玉あられ』表紙)

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 『玉あられ』 1 「玉霰序」三井高蔭(「玉霰序」資料2/6枚 + 『玉あられ』表紙)





 隙間時間に『玉あられ』を読み、先日読了。

 わずかずつ記載したい。

 見ていただきますれば幸いです。




 

 『玉あられ』本居宣長著

 
    (この間に四ページあります)
 

 『玉あられ』「玉霰序」三井高蔭

    ○序一
    ○序二
    ○序三   

    全六頁 内写真二枚

「玉霰序」三井高蔭は大変大きな文字で記されている。


 三井高蔭著『弁玉霰二論 』

 『弁玉霰二論 』は早稲田大学で公開されている。▼

   早稲田大学 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00921/index.html

 





三井高蔭(ミツイ・タカカゲ)

 宝暦9年(1759)~天保10年(1839)11月24日。享年81歳。幼名岩三郎、亀之助、総(宗)十郎。名は初め高照(ヒロ)、宗養。号は藁蔭舎(ワラビサシノヤ)。三井家鳥居坂家四代目。
 15歳から江戸店で修行。
 安永4年(1775)正月26日からの第3回『源氏物語』講釈に参加するが、入門は遅れて同8年。三重圏点。
 天明5年(1785)頃から「本居氏ノ門ニ於テ専ラ文学ヲ研究シ、特ニ作歌ニ力ヲ用フ」(「稿本三井家史料」)。
 この記事の裏付けとなるのが「三井高蔭日記」で、天明5年と7年の一部が残されて宣長との交流などその日常が詳記される。
 師の六十賀に参加、また、松坂を来訪した松平康定に大平と拝謁し、『源氏物語玉の小櫛』刊行を助ける。
 寛政11年3月16日の七十賀は、塩屋町の別業畑屋敷で開く。
 山室山奥墓の建造に尽力。
 文化6年、養子三井高延(後に春庭門人)を京都より迎え、天保3年、家督を譲る。
 著書に『弁玉あられ論』がある。京都の有職家・高橋家とも交渉があったらしいが詳しくは分からない。

  ( 本居宣長記念館 公式HPhttp://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/mitsui_taka.html引用)



 三井高蔭(ミツイ・タカカゲ)

 1759-1839 江戸時代後期の国学者。
 宝暦9年4月22日生まれ。豪商三井家の一門(松坂北家)。本居宣長(もとおり-のりなが)の門人で,本居春庭(はるにわ)の後鈴屋(のちのすずのや)社を後援した。
 天保(てんぽう)10年11月24日死去。
 81歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。
 通称は宗十郎。
 号は宗養,藁廕舎(わらびさしのや)。
 著作に「弁玉霰(べんたまあられ)二論」。

  (デジタル版 日本人名大辞典+Plus引用)



 三井高蔭(ミツイ・タカカゲ)

 三井家(みついけ)は、日本の氏族。江戸時代の豪商であり、三井財閥の当主の一族。

 三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない。
 12代出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国津付近の一色へ移り、その後、松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。

 慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。
 屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。
 高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。
 高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている。

  (Wikipediaより)

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