【企画展】日本・スイス国交樹立150周年記念『エメー・アンベールー −スイス特派使節が見た幕末日本』
2014年9月2日(火)〜28日(日)
主催 奈良県立図書情報館
共催:ドイツ東洋文化研究協会 後援:在日スイス大使館、スイス政府観光局
「日本とスイスの150年−そして?」
図書館の珠玉 大学図書館所蔵稀覯書紹介 神奈川大学 図書館より吉田隆氏 エア・アンベール『幕末日本図絵』初版
1864年、日本とスイスは修好通商条約を締結ました。
スイスは日本と通商条約を結んだ8番目の国だそうです。
奈良の図書館では【企画展】日本・スイス国交樹立150周年記念『エメー・アンベールー −スイス特派使節が見た幕末日本』が開催され、当時の資料などをもとにパネル等で紹介されています。
以下は企画展とは関係なく、わたくしごととなりますことをご了承下さい。
学生時代ヨーロッパ七カ国(正確にはバチカン市国を入れて八カ国)行きました。
訪れた国の中にスイスも含まれていました。
スイスは美しい国です。
街を歩いていると、長蛇の列。
私は後尾のスイス人に何事かと問うてみましたら、時計の展覧会(または展示場)だということでしたので、彼女の後ろに並ぶことにしました。
時計の展覧会(または展示場)は無料で、入場券や招待券は必要ありませんでした。
中に入ると輝かしい宝石のついた豪華な時計が並び、小恥ずかしい思いをした物です。
この時、改めて、スイスといえば時計という概念も、まんざら間違いでもなかったと感じました。
時計を限定した場合、私の場合は、スイスでのこの時と、テヘラン(イラン)の宝石博物館で見た時計が、最高に豪華だったのではないかと思っています。
アンベールについて−その生い立ちと祖国スイスの海外進出
神奈川大学 図書館より吉田隆氏 エア・アンベール『幕末日本図絵』初版より
教師から文部長官へ
アンベールは1819年6月29日にスイス北西部、ジュラ山脈の麓のフランス国境近くに位置し、スイスの時計産業の発展の中心を担ってきたラ・ショー・ド・フオンのビュルルに生まれ、1900年9月19日にレマン湖北側のヌーシャーテルで亡くなった。
初等教育の終了後、ローザンヌのアカデミーで、史学、ギリシャ語、ギリシャ語、ギリシャ文学、宗教学などを学び、1835年ドイツのヴェルテンベルグの寄宿学校でフランス語の教鞭をとった。
1839年にテュービンゲン大学に入学し言語学、哲学、一般文学を修めたが中退し、モルジュの高等学校で中級ラテン語の講師になった。
1846年8月に辞めるまでの教師生活の中で、ヨハン・ヤーコブ・ホッティンガー Johann Jakob Hottinger(1783-1860)を知り、彼の著書『ウルリヒ・ツヴィングリとその時代』の仏訳、Ulrich Zwingli et son epoque., traduit de l'allemand par Aime Humbert. Lausanne: M. Ducloux, 1844.を出版している。
1830年のフランス七月革命の影響を受けてヨーロッパ全体に自由主義の潮流が大きく動き出した時代状況下で、スイスもプロテスタントのカントン(邦)とカトリックのカントン(邦)との対立がこれまで以上に現れていた。
1845年ヴォーのカントンで革命が勃発し、1848年3月3日、臨時政府の委員に任命され、17日にモーチェMotieres及びラ・ショー・ド・フォンのカントン(邦)より選出されて憲法議会の一員となり、5月4日、邦内閣の文部長官になった。
スイスのアジア市場進出
1857年にシャン・ド・フォンとル・ロクルの「ユニオン・オルロジェール」(時計生産者組合)Union Horlogereの会長になり、1858年にラ・ショ・ド・フオンに事務所を設け、ザンクトガレンの商業指導局と業務提携を行った。
時計業界の貿易上の行き詰まりとのアジア向け貿易を考えていたザンクトガレンの木綿工業界との思惑が一致し、そのことが商業指導局を通じてスイス連邦政府に日本との修好通商条約の締結に向けての派遣を促した。
すでに、シンガポールにアジア向け商館を設置していた「時計生産者組合」は、組合の輸出部門のアジア局総支配人であるプロイセンのルドルフ・リンダウ(Lindau, Rudolf 1830-1910)を日本に向けて1859年4月に日本へ派遣していた。
リンダウは、肩書きはスイス連邦使節で、後述するようにアンベールのようスイス連邦の代表として日本と和親・通商条約の交渉を行い、批准の用意をもとにこれを締結する任務を与えられたスイス連邦全権公使ではなく、通商関税局の代表でしかなかった。
リンダウは、1859年(安政6年)9月3日に長崎に到着、10月中旬に神奈川に移り、横浜の運上所で2回にわたって幕府との交渉を行ったが、彼の交渉は失敗に終わり、彼は1860年1月に日本を去る。
後にリンダウは再度来日し初代のスイス連邦駐日領事となり、著書Un voyage autour du Japon. Paris: L. Hachette, 1864.(この書の邦訳には森本英夫訳『スイス領事の見た幕末日本』新人物往来社1986年と飯森宏訳『日本周航記』西田書店1992年)の中で「日本の親切な持てなしが私に残してくれた思い出は、横浜や長崎で生活してきたヨーロッパ人のだれをも驚かすことはないであろう。
彼らのうち何人かは、この日本でこれと似た歓迎を受けてきているからである。日本の庶民は実際に外国人が好きである」「彼らは外国人の優れた面を否定」しないと述べ、日本人の人間性に深い共感を持った(森本206頁参照)。
遣日使節団長として日本へ
1861年(文久1年)1月にプロイセンが日本との修好通商条約を締結すると、スイスも日本との修好通商条約締結の使節を送る機運が高まり(今現在でも、複数のスイスの歴史学事典には日本との修好通商条約についての詳細な記述は少ないが)、1861年7月、使節派遣費用の予算が決定して1862年5月、スイス連邦議会はアンベールを遣日使節団長に任命した。スイスはいまだ和親条約を締結していなかったからアンベールは、日本と親密なオランダ国の国籍を取り代表資格を得た。また彼をはじめとして代表団の中には誰一人日本語を話せる者がいなかったため、アンベールは当時、日本が外国人との<コミュニケーション>に使用していたオランダ語の習得に励み、来日に備えた。
1863年(文久3年)4月9日に長崎に到着した代表団は、オランダ政府の軍艦で横浜に向かった。